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ビジネス交渉の人材育成① ~交渉学の活用事例(企業編)

camera_alt (写真=Pressmaster/Shutterstock)

今回は、「交渉学の活用事例(企業編)」をテーマにしました。日本企業の中には、交渉学研究を、社員の交渉による問題解決力やリーダー育成などの人材育成に活用している企業があります。

交渉準備のPDCAサイクル(※1)では「交渉シナリオ構築/評価シート」(以下、「評価シート」)を、①交渉準備の共通フォーマット、②交渉結果のレビューとナレッジの共有、③交渉力の育成トレーニングの3つの目的で活用できることをご紹介しました。

今回は、その中から、「評価シート」を②交渉結果のレビューとナレッジの共有に活用している企業の事例をご紹介します。

※1:ビジネス交渉の戦略②~交渉準備のPDCAサイクル

https://leaders-online.jp/keiei/negotiation/2770

本テーマの執筆者の佐藤裕一氏は、東京大学大学院(航空宇宙工学専攻)在学中に交渉学を学び、その後、コンサルティング業務で活用すると共に、大学の交渉学研究に参加し、その上で、大学講座や企業研修で講師としても活動されています。

ご紹介する企業では、「評価シート」を用いて、平均的な担当者と受注率が高い担当者を比較し、何が違うのかを分析し、ナレッジの共有と人材育成に活用しています。実際の「評価シート」に基づき作成されたサンプルを比較しながら、交渉学の活用事例をご紹介したいと思います。

一色 正彦

最近、交渉学をまなぶ企業や団体が増える中で、“研修以外にも、交渉研究の成果をいかにビジネスの現場に活かすか”ということに関心が集まっています。さまざまな取組みが生まれている中で、交渉学を実務に採り入れると何が見えてくるのか、具体例をもとにご紹介させていただきます。

1.活用事例のご紹介

交渉学を実務現場に導入しやすい方法は、「ビジネス交渉の戦略②~交渉準備のPDCAサイクル」(※1)の回でも紹介されたような「評価シート」を“交渉の準備と振り返りにむけた活用シート”として、事業部や営業組織内で使用することです。今回は、営業組織の受注率改善のために評価シートを活用した企業の例をご紹介します。なお、商談の情報はセンシティブな内容も含むため、今回ご紹介する事例は、モデルになった企業とは事業内容や案件詳細を変更しています。

導入企業プロフィール

A社は、ECサイトのシステムやマーケティングツールなどを企業に提供する、中堅の制作/開発企業(※2)です。古くからECサイト構築サービスを始めたことで、顧客の中には長いお付き合いができている企業が多くいます。一昔前までは、営業マンが企業を訪問してサービスの紹介をするだけで、新規の契約やサイトのリニューアルなどが受注できていた時代もありましたが、同業者による価格競争が過熱したことで、相手企業のニーズを引きだして提案するような営業スタイルへの転換が求められています。数年に渡って試行錯誤したもののあまり変化が起きず、担当役員の肝いりで改善活動を行なうことになりました。
※2:実際の企業とは事業内容を変えています。

評価シートの導入にむけて

A社の営業部門で論点になっていたのは、商品や顧客の業種にかかわらず、他の担当者よりも必ず良い成績を収める担当者が数人いることでした。これは、各担当者のスキル向上によって業績を伸ばすポテンシャルがあるということで、営業スタイル転換に向けた継続的な事例分析と改善の取組みが行われることになりました。

数多くのベストプラクティス分析と共有の方法がありますが、A社では、対人の問題解決に焦点をあてた分析が進む「交渉」の研究成果を援用することにしました。その第一歩としてまずは研修で交渉の枠組みを学び、その枠組みで商談を分析する「活用シート」を各担当者が作成して、月1回のペースで共有するやりかたで取組みが始まりました。

2.評価シートの比較から何が見えてくるか

平均的な担当者aと、受注率が高い担当者bの評価シートを下記に記載します。是非みなさんも、違いを見比べてみてください。(※3)
※3:案件の詳細については、主旨に反しないレベルで変更しています。

二つの評価シートは担当者が置かれた状況としては似ていますが、見比べてみるとミッションや、準備内容である選択肢・BATNAなどに違いがありそうです。一つずつ見ていきましょう。

最初に注目すべきは、ミッション(何のために交渉に臨むのか/交渉の先に得たい利益)の違いです。担当者aのミッションは「今回の商談で相手にリニューアル案件を発注してもらうこと」にありますが、担当者bのミッションは「月の売上目標の達成」に置いてあるようです。この違いをもって優劣を語ることはできませんが、担当者aの状況では「相手」と「商品(リニューアル案件)」が指定されているので、リニューアル案件の「金額」が交渉での主な調整余地になりそうです。一方で担当者bの状況では、今月の売上につながるのであればサイトリニューアル以外の需要にも焦点が当たりそうです。このように、何をミッションとして背負うかによって、商談における関心が変わってくることを理解する必要があります。

二つ目に注目してほしいのは、選択肢の欄です。担当者aの評価シートには記載がありませんが、事前に「リニューアルの検討をしていない」ことが判っている相手に、提案できる材料を準備しなくて大丈夫でしょうか。実際に、「交渉内容」の欄を見ると、「相手がリニューアルに意欲的でない」ことで商談に苦戦しています。担当者bの評価シートでは、選択肢の欄に複数の記載があります。リニューアル対象を一部に絞ったり、他の商品を提案したり、顧客に影響を与える人からの間接提案も想定しているようです。商談において、事前に相手のすべての情報が分かることはないので、提案できる選択肢を幅広く備えておくと有用です。

最後に注目してほしいのは、BATNA(合意できなかった場合のバックアッププラン)の欄です。担当者aの評価シートには、「最低ラインの条件」をさらに下回る条件が記載されていますが、BATNAは相手と不合意になったときでもミッションを実現する選択肢なので、この内容はBATNAとしては不適切です。交渉のトレーニングを受けていない状況では、このように「困った時は利益が出なくても譲歩して受注する」と考える営業担当者が出ることが多いです。一方、担当者bの評価シートでは、ミッションである「今月の売上目標の達成」は「他社でカバーする」ということなので、不合意になったとしてもミッション実現を目指すことができます。

評価シートの比較から、営業的なベストプラクティスを交渉の基礎概念で整理・分析していくと、案件の個別性から距離をおいて汎化された解釈を見つけやすいことに気づきます。今回の例では、ミッション設定が管理者との間でずれていると商談プランの方針がずれてしまうことや、選択肢やBATNAの部内共有によって各担当者の準備内容が底上げされることが示唆されることは、組織をマネジメントする上で有用でしょう。

実際A社では、この評価シートを用いて交渉の準備や振り返りと共有をはじめたことで、商談前の上長への相談が増え、多くの担当者が事前に対策を立てるようになったそうです。また、「需要がない企業へのアプローチ方法」や「実業務におけるBATNAの設定方法」のような、受注率が高い担当者達の具体的なノウハウが共有化されるようになったそうです。

3.おわりに

ご紹介したA社では、評価シートを用いて、交渉の準備や振り返りを共有するところからスタートしています。

更に、「模擬交渉による交渉力育成プログラム」(※5)で紹介されていますが、社員が継続的に模擬交渉を行なうことにより、交渉による問題解決能力の向上が期待できます。

※5:ビジネス交渉の戦略③~模擬交渉による交渉力育成プログラム

https://leaders-online.jp/keiei/negotiation/2816

交渉学の人材育成への活用方法はいろいろあり、今回ご紹介したのは比較的オーソドックスな活用方法ですが、他にも組織的な取組みや、戦略的な活用方法が数多く生みだされています。

理論を実践することでメリットがもたらされるのが交渉学の特長でもあるので、みなさんも是非ビジネスに活かしてください。

佐藤 裕一

佐藤 裕一
<執筆担当>
人材育成関連(主に、企業人材)

<交渉学との関わり>
大学院の交渉学講座を履修後、TA(ティーチング・アシスタント)の経験を経て、交渉学を活
用し、学生・社会人に対する教育を行なっている。

<アカデミック・バッグラウンド>
名古屋大学工学部卒、東京大学大学院工学系研究科航空宇宙専攻博士前期課程修
了・修士(工学)。

<ビジネス・バックグラウンド>
ボストン・コンサルティンググループ(BCG)のコンサルタント(テクノロジ・メディア業界の事業戦
略等)を経て、独立。企業に交渉を中心とした能力向上のトレーニングを提供している。(株)
グリア代表取締役社長、慶應義塾大学講師(次世代リーダー育成プログラム福澤諭吉記念
文明塾)。(株)ごちぽんメディアプラットフォーム事業部長。著書「理系のための交渉学入門」
(共著、東京大学出版会)。


一色 正彦
<執筆担当>
全体監修、交渉学関連
<交渉学との関わり>
欧州で海外企業との技術提携交渉に苦労している時に、英国人より交渉戦略のアドバイスを受け、交渉学の存在を知る。その後、国内外のビジネス交渉に活用すると共に、東京大学(先端科学技術研究センター)と慶應義塾大学(グローバルセキュリティ研究所)の研究に参加し、その成果を用いて、交渉学の研究と学生・社会人に対する教育と人材育成を行なっている。
<アカデミック・バッグラウンド>
大阪外国語大学(現大阪大学)外国語学部卒、東京大学先端科学技術研究センター先端知財人材次世代指導者育成プログラム修了
<ビジネス・バックグラウンド>
パナソニック(株)海外事業部門(主任)、法務部門(課長)、教育事業部門(部長)を経て独立。大学で教育・研究を行なうと共に、企業へのアドバイス(提携、知財、交渉戦略、人材育成)とベンチャー企業の育成・支援を行なっている。金沢工業大学(K.I.T.)大学院客員教授(イノベーションマネジメント研究科)、東京大学大学院非常勤講師(工学系研究科)、慶應義塾大学大学院非常勤講師(ビジネススクール)、関西大学外部評価委員会委員(大学教育再生加速プログラム)、(株)LeapOne取締役(共同創設者)、合同会社IT教育研究所役員(共同創設者)
主な著書:「法務・知財パーソンのための契約交渉のセオリー」(共著、レクシスネキシス・ジャパン)、「ビジュアル解説交渉学入門」、「日経文庫 知財マネジメント入門」(共著、日本経済新聞出版社)、「MOTテキスト・シリーズ 知的財産と技術経営」(共著、丸善)、「新・特許戦略ハンドブック」(共著、商事法務)など。


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