“京都花街”の魅力
男性であれば、だれしも一度は行ってみたいと思うであろう京都の花街。俗世間から離れ、魅惑的な世界へと足を踏み入れる体験は、いつの時代でも夜の殿方たちを魅了しています。ただし、京都の花街で遊ぶにはそれなりの準備が必要です。そのための入口となるのがいわゆる「お茶屋」。その歴史は300年を誇る江戸時代の初頭にまでさかのぼります。
もっとも、お茶屋で遊ぶにもルールを守らなければなりません。とくに、有名な「一見さんお断り」の壁を乗り越えなければ、お茶屋に行くこともできないのが通例です。では、具体的にどのような決まりがあるのでしょうか。また、遊び方のポイントとは。先斗町にある老舗のお茶屋「上田梅」で6代目を務める上田純子氏にお話をうかがいました。
舞妓、芸妓、そして「上田梅」のおかみへ
その優美な姿にあこがれる女性も多い舞妓・芸妓の世界。上田さんはどのようにして、この世界に入ったのでしょうか。
「うちの生まれ故郷は、広島県尾道市どす。中学を卒業して舞妓に憧れて先斗町へ寄せて戴きました。10ヵ月の見習い修行を経て、舞妓になり21歳で襟替え(舞妓から芸妓になる事)をして、芸妓になり、6年前に上田梅の先代から跡継ぎのお話しを頂戴して、気張らせて(頑張らせて)戴いております。」(上田氏)
中学校を卒業して上京した上田さんは、厳しい舞妓の修行を経て芸妓へ。そして、6年前からは上田梅のおかみを務めています。
「上田梅を継ぐと同時に、女将修行の為に芸妓もお稽古も辞めさせて戴きましたが、どうしても芸事を諦め切れず、お稽古を再開して2年前から舞台にも出させて戴いております。」(上田氏)
厳しい修行を経て、さらにおかみとしても修行を続ける上田さん。京都にお茶屋を構えるおかみさんだけに、その立ち振る舞いには京都ならではの上品さが感じられます。
遊郭の基本「舞妓と芸妓の違い」
ところで、舞妓と芸妓の違いはどこにあるのでしょうか。
「舞妓は、だいたい15,16歳から20歳過ぎまでどす。舞妓の間は良い芸妓になる為に一生懸命お稽古を気張ってお行儀作法を学びます。芸妓になってからは、一生涯芸妓で居られます。その間もずっと芸を磨き続ける、そんな世界どす。」(上田氏)
上田さんによると、中身だけでなく、見た目にも違いがあるとのこと。
「外見の違いは、舞妓は地毛(自髪)で結うてます。帯はだらりの帯(長い帯)でお袖も中振り袖で肩縫い上げをして、おこぼ(こっぽり)を履いておぼこい(子どもらしい)格好をしてます。ほんで芸妓は鬘(かつら)を被ってます。お袖も短こうて、帯はお太鼓(短かくまとめた結び方)を結んでるんどすえ。」(上田氏)
修行を経て、舞妓さんは芸妓さんへと成長していきます。そしてその成長とはまさに、人の成長と同義なのです。
舞妓が芸妓になるとき
「舞妓から芸妓になる事を衿替えと申します。世間一般の成人式の様な大切な行事どす。芸妓になってからの舞台は大っきい姉さん方(大先輩の姉さん方)と一緒に立たせて戴きますので舞妓の時から精進してお稽古を気張るんどっせ。」(上田氏)
「お稽古事は舞踊、お囃子(笛・太鼓(たいこ)・小鼓(つづみ)。大皷(おおかわ))、お三味線、お唄(長唄・常磐津・清元・小唄)、お茶と沢山の科目を習います。一番最初のお稽古時間は舞妓どすのでだいたいの日程は午前中からお稽古を習って、それから支度をしてお座敷へ寄せて戴きますので毎日本当に忙しおす。ええ(良い)芸妓になれる様に一生懸命気張ります。」(上田氏)
花街と聞くと華やかなイメージがありますが、その背景にある舞妓さんそして芸妓さんの努力を考えると、歴史の重みとともに、培われたホスピタリティの厚みが感じられます。
お茶屋の特徴と「一見さんお断り」の理由
背景を知ったうえで、お茶屋の特徴についてさらに深く追及していきましょう。
「この町の事を花街(かがい)と申します。京都には祇園甲部、祇園東、上七軒。宮川町、先斗町と五花街が有ります。
それぞれの花街にお客様に御越し戴いておもてなしをさせて戴く場所がお茶屋どす。お茶屋は基本的にお料理は仕出しどす。なるべくお客様のご要望にお答えしたいと思っておりますので、たとえば会席料理を続いて召上がっておられて別の献立にして欲しいとの事どしたら、おばんざいやお寿司他をお取り寄せしてお出しする事も有りますし、外国のお客様がお越しやす時はお料理屋さんにお肉を取り入れたお料理をお願いすることも有ります。少食のお客様どしたら松花堂弁当を注文させて戴きます。一番嬉しいお言葉はお帰りやす時に「今日は美味しかった!楽しかった!」と言って戴く事どす。」(上田氏)
決まったメニューはなく、お客さんの要望に応えるスタイルは他の料理屋では考えられません。ここがまさに、お茶屋における最大の特徴と言えるでしょう
「御贔屓のお客様にお茶屋は「第二のお家」と思って戴ける様なおもてなしを心がけております。それにはお客様との信頼関係を深めさせて戴いてこその事だと思います。そやしお茶屋は一見さんお断りなんどす。何方はんでもぜんぜん知らん御方をお家に上がって戴かしまへんどすね。」(上田氏)
そんな上田さんは、すべてのお客さんに対して、次のような想いを抱いているとのこと。
「御贔屓のお客様に「ただいま」と御越し戴ける様なお茶屋を目差して日々精進しております。」(上田氏)
人間同士の根源的なつながりが基本
このように、お茶屋のシステムは世間での友人・知人関係と近しいものがありそうです。その背景にあるのは、人間同士の根源的なつながりです。
「はじめは御紹介でお越しやしても今はものすごい御贔屓にして下さって居るお客様もおいやす(いらっしゃる)し、その様なお客様が御一人でも増えます事を願いながら努力させて戴いております。」(上田氏)
お茶屋、そしておかみさんの仕事というのは、伝統によって支えられてきた特別なもののようです。それは、花街の仕組みにも反映されています。
「お客様をおもてなしさせて戴く為には、お茶屋と芸妓、舞妓が団結せんとお商売にならしまへん。その関係性が本当に重要どす。それからお客様の中には先代、先々代からお越し戴いて居る方もおいやす。その方々にも引き続き御満足戴ける様、また新規のお客様には末永う御贔屓にして戴けます様、誠心誠意気張らせて戴きたいと思っております。」(上田氏)
まずは歴史あるイベントを堪能することからはじめよう
お茶屋だけでなく、芸事そのものをもっと楽しみたい方には、オススメのイベントがあるそうです。一つ目は「先斗町・鴨川をどり」。
「明治五年からの年中行事「先斗町 鴨川をどり」がございます。おかげさまでこの度180回目を迎えさせて戴きます。開催期間は五月一日~五月二十四日までで一日三回公演どす。うちも出演させて戴いております。是非共御越し戴けます様どうぞ宜しゅうおたの申します(お願い致します)。」(上田氏)
『先斗町・鴨川をどり』
〜京の花街で最多上演回数を誇る舞踊公演〜
京の五花街の一つ、先斗町歌舞会が行う春のをどり「鴨川をどり」は、1872年(明治5年)に創演されました。明治の一時期や第二次世界大戦で中断された時期もありましたが、戦後すぐに再開され、現在に至ります。1951年から1998年までは、春・秋と年二回の公演が行われ、その公演回数は178回(※2015年現在)を数え、京の五花街のなかでも最多公演回数を誇ります。
春のみの年一回に戻った現在も、華やかな芸舞妓たちによる舞踊劇(第一部)、純舞踊(第二部)の二部構成で観客の目を楽しませています。その魅力は海外でも評判となり、ジャン・コクトーやチャーリー・チャップリンなど海外の著名人をも魅了しました。昭和初期の鴨川をどりには、洋楽が使用されたり、少女レビューが上演されたりと、伝統を守るだけでなく、常に新しさを求めて発展しています。」(HPより抜粋)
そして二つ目は、「水明会」です。
「それと、もひとつ年中行事の「水明会」が有ります。四日間開催させて戴いて居る舞踊会どす。水明会は鴨川をどりと同じ先斗町の伝統行事どす。どうぞお越しやしておくれやす。」(上田氏)
『水明会』
先斗町歌舞会の代表的な行事のひとつ「水明会」は昭和5年3月15日に第1回目の公演がもたれました。 これはそれ以前にあった伎芸研究会として催されていた「長唄千代栄会」(明治40年2月発足)と「土曜会」(昭和2年9月発足)との両会が発展的併合したものであります。 その名も鴨川の清流にちなんで「水明会」としております。
当時は特別基準以上の伎量を有する芸妓のみで構成されていました。 昭和16年10月の第36回公演までは毎年3月、6月、10月の年3回の定期公演が続けられます。 当時は1枚の切符で年間を通して鑑賞できる「通し切符」も発行されていました。
戦後になり、昭和24年9月に復活され、28年までは毎年3月、9月の年2回公演がもたれます。 その後は年1回昼夜2部制が採用されましたが、平成11年より「秋の鴨川をどり」が廃止となったのを機にそれまで3月に行われていたものを10月に開催することとなりました。」(HPより抜粋)
京都お茶屋の魅力。こちらの記事でその一端について知る事は出来てもその本質を知るにはまずは芸舞妓の日々の努力の成果を感じながら先斗町歌舞練場で観劇されてはいかがでしょうか!!
<取材協力>先斗町ホームページ
http://www.ponto-chou.com/