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​第16回 元役者志望の青年が東京で広める関西の母の味。お好み焼き「いまり」

小さな小さな店、恵比寿でのスタート

恵比寿から白金、北里病院に向かうバス通り沿い。
裏道との間に挟まった猫の額のようなスペースに建つビルの一階に、小さな雑貨屋があった。
ちょっとしたプレゼント用小物を入手する際に重宝したが、ある日突然、ショップでも狭いスペースだったそこにお好み焼き店ができた。
――確か「平凡」という名前だった。

ぼくは大阪生まれ大阪育ち。
東京に移って30年になるが、今でも粉物には目がない。
いっぽう、東京で太鼓判を押せる店にはなかなか出会えず、お好み焼き店を見つければ訪問して大阪の味を探し続けた。
雑貨店の後にできた「平凡」にも早速出向くが予想通り失望。

一年しか経たない間にオーナーが変わったようで、新たに「いまり」という提灯がかかげられた。


『いまり』とは……。

お好み焼き店っぽくない店名に妙に惹かれたぼくは、さっそく店のドアを開けた。

「うぇぃっす!」

おそらく「いらっしゃいませ」と言ったのだろう、だが、ぼくにはそう聞こえた。
しかし、文字に書くとこんなぞんざいな言葉が不思議と感じがいい。
なんて爽やかな店主だろうと驚く。
さらに最初の一言でリアルな関西人であることを認識した。

「これは間違いなくいける――!」そう確信した瞬間は10年以上前だ。
その後現在に至るまでに、店主大林凌さんは、都心の一等地に4店舗を構えるまでに至った。

「『いまり』というのは、兵庫県でもかなり大阪寄りの、武庫之荘というところで僕の母が営んでいたお好み焼き店の名前です。
実は、母が考えた僕と兄貴と母の名前の一文字ずつを取ったオリジナルの店名なんです。
僕も、何の迷いもなく同じ名前を最初の恵比寿の店で使いました。

実は……、今ではなんて無謀だったんだろうと思うんですが、元々は役者を目指して東京にきました。
バイトしながら小さなプロダクションに所属してオーディションを受けたりしてたんですが芽が出ず、一度関西に戻りました。
せっかくの実家の環境ですから、母の営業が終わった後にお好み焼きを友達にふるまったりして、いつでもちゃんとお好み焼きが焼けるように、ずっと練習をしていました。


すると知り合いから、お好み焼きの空き物件があるので、東京に来ないかと言われたんです。
一度は諦めた東京での生活ですが、実家でもともとの家業でやっていたお好み焼き店を東京でできる、ということに魅力を感じ、勝負することにしました」

人柄と味、両方の魅力が『いまり』の原点



筆者が最初に『いまり』を訪れた瞬間に感じた印象、それは間違いではなかったようだ。
10年前のあの時から変わらぬ、十分に役者としてやっていける風貌、よく通る声、そして笑顔。
そんな男が一人で小さなカウンターのみ10席の店を守る。

――そりゃ、人気が出ないはずはない。

特筆すべきはその味。
飄々として決して焦らず軽い受け答えをしながら、てきぱきと仕事をこなす。

その中に見る、実に細かい丁寧な作業。
素材、ソース等はすべて武庫之荘の母の店から取り寄せたという、その頑なさも相まって、まさに関西の味そのもの。

ぼくはついに、通えるお好み焼き店が東京にできたことに快哉を叫んだ。

しかも、お好み焼きだけではなく、鉄板での各種おつまみが充実。

小さい店ながら、当時大阪が誇る「呉春(ごしゅん)」なる日本酒まで置いてあり、大阪の飛び地さながらの居心地だった。

「一人でやってると、席が全部常連さんばっかり、というのも刺激がなくなって辛いんですよね。
常連さん同士で盛り上がってくれるので店の側としては本当は楽なのかもしれないけど、自分はそれはダメだと思っていました。
なので、4名以上の予約は取らず一日に必ず2名は常連以外の予約を入れるように考えました。
恵比寿の駅の反対側にテーブル席もある広めの2店目を出した時、2ヶ月ほど元々の店を閉めて電話が転送されるようにし、予約のお客さんには、あたかも移転したみたいに思っていただけるような作戦もやってみました」

役者を目指して上京、いったん夢破れはしたが、飲食店の経営者として発揮する才覚は類まれなクレバーさ。
ぼくは、独立したての若い料理人から営業のアドバイスを求められると、大林さんのこの予約の取り方と同じ方法を勧めている。

焦らず自然体で店舗を拡大

「店をやり始めた当初は、こういう形で店を増やしていこうという気もなかったんですが、優秀なスタッフがどんどん集まってくると彼らに任せる場所を作るべきだなと考えました。

うちのスタッフは、店に工事に来たエアコン会社社員とか、店の向かいにあったコンビニの店員とか……。
求人募集での採用は過去に一人しかおらず、みんなそれぞれ、なんらかの関わりがあって参加してくれたメンバーばかり。

スタッフが増えてきて、「ようやく楽になったなあ」と思ったころに、新たな出店でとんでもなく忙しくなり~、を繰り返しつつ、渋谷の桜丘に4軒目を出店することができました。
そのとたん、まったく休みなしの大忙しなんですが。

恵比寿、五反田、渋谷のような都心に出店をこだわったのは、オープン当初から変わることなく常連さんばかりが集まる店にはしたくなかった、という思いはあります。

もちろん常連さんは大切ですし今の渋谷に来ていただいているのも、ほとんど恵比寿や五反田のお客様だったりします。
ただ、住宅地に近づけば近づくほど帰宅前の常連の店になってしまい、スタッフがそこに甘えて成長しなくなるのではないかと考えました。」

5年間、恵比寿の小さなカウンターのみのスペースで一人でやってきた。
その後の5年で、恵比寿西口側、五反田、渋谷――、着実に築き上げ、
関西、母のオリジナルの味……、
いや、ご自身のオリジナルのお好み焼きを東京で見事に再現した。

大林さんの料理哲学と後進の指導

お好み焼き店も名店と呼ばれるようになると、自分のことをシェフと呼ばせたりする店主も見かけるが、大林さんはそんな姿を微塵も見せない。

「うちには、おかんの○○みたいなメニューがあります。
これは関西で母がやってた店独自の料理なんです。
ソースはすべて母が厳選してお願いしていたメーカーから直接買ってます。

僕は、母が作ったものを見よう見まねで自分の技術としてなんとか習得し、その過程をスタッフに見せてきました。

だからうちのスタッフに対し、教育とか指導みたいな形でのトレーニングはできない、というかやり方が分からないんです。
より早く技術を習得し店を任せられるぐらいに成長してくれれば、ポジションはもちろん収入として還元するように考えています。
うちの店長クラスの年収は、大手メーカーの部長並みですよ(笑)」

――そう大林さんがいうので、仕込みをされていた渋谷店の山本店長に話を聞いてみる。

「意外と細かいところも指示してくるんですよ、鉄板にコテを入れる角度が微妙に違うとか。
でも、基本は自分の背中を見せて、自分をコピーしろというスポーツの世界のようなやり方ですね。
だから、スタッフ全員、動きだけではなく喋り方まで似てきました(笑)」


だから『いまり』は、店舗を増やしながらも、どの店でも同様に高いクオリティ、気持ちのいいホスピタリティが発揮されるのだ。

「お好み焼店といっても料理屋ですから、料理人としての自覚は持ってもらいたいと思っています。
なので、月1回は必ず異業態の店に行って、自分の気に入ったメニューの写真をグループLINEにあげるという決まりを作りました。

これ、ちょっといいなあみたいな料理は、みんなで再現・試食してみて新たに『いまり』のメニューに加えたりもします。
みんな忙しい中、1ヶ月に1回というのはなかなかハードルが高く、およそ『いまり』では出せないような、例えばディズニーランドのレストランとか、そんな苦し紛れのものもあって、逆に楽しいんです。」

夢は、アメリカでお好み焼き店を!

将来についても聞いてみた。

「例えば、何年後に何店舗に増やすとかの目標を掲げる飲食グループも多いですが、ぼくはそんな無責任なことは言えません。
1人でやっていたときも2店目が出せるとは思っていなかったし、五反田から1年で渋谷の店をオープンするなんて、五反田に店を出した時は予想もしていませんでした。
全てがタイミングとご縁ですね、「やろうぜ!」という機運を高めるスタッフの支えも大きいです。」

ぼくも、『何年後に何軒達成』みたいな目標を掲げる飲食会社の店に行きたいとは思わない。
それは、飲食を単に金儲けとしか考えていないような気がするからだ。
きちんともてなして、自分の店らしい美味しい料理を提供しようとすれば、大林さんのいう、そんな具体的な数値目標は立てられない、とするのが正直な気持ちだろう。

大林さんは言う。


「でも、関西の、おかんの味である『いまり』のお好み焼きを海外でも広めたい、という大きな夢は持っています。

一人でやってたとき、やっと少し時間の余裕ができてアメリカに行きました。
大好きな野球を観ながら、『ああ、この町でいつか自分の店を持ちたい、お好み焼きを海外の人たちに食べてもらいたい』と強く思いました。

実は、数日間ニューヨークの和食店の厨房で働かせてもらったり、屋台みたいな形でロサンゼルスのスーパーで販売したり、いろいろな形でトライアルをやってみて手ごたえは感じるものの……、やっぱり海外で暮らす日本人のお客様が多いんですよね。

できるなら、お好み焼きを知らないアメリカ人にウマイと言わせたいものです。

まずは渋谷店を軌道に乗せる、そして何かご縁があれば、は新たな東京都心の場所にも地道に拡大する。
その後、余裕があれは、いや、余裕を見つけてアメリカで挑戦したいです」


大林さんは今年(2018年)38歳。

まだまだ若くこれからの人で、その伸びしろは想像もつかない。
ぼくは、彼のお好み焼きがマンハッタンで食べられる日も、そう遠くはないなと静かに思っている。


【プロフィール】
伊藤章良(食随筆家)
料理やレストランに関するエッセイ・レビューを、雑誌・新聞・ウェブ等に執筆。新規店・有名シェフの店ではなく継続をテーマにした著書『東京百年レストラン』はシリーズ三冊を発刊中。2015年から一年間BSフジ「ニッポン百年食堂」で全国の百年以上続く食堂を60軒レポート。番組への反響が大きく、2017年7月1日より再放送開始。

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