第13回 美味しさへの一生懸命な姿勢こそが230年続く老舗の証 総本家更科堀井
蕎麦屋酒の悦楽
休日昼下がりの蕎麦屋酒、ぼくにとってかけがえのない習慣の一つである。
大阪在住のころ、そんな感覚は毛頭なかった。東京に移り住み東京の食文化体験に渇望していたぼくは、時間を見つけては著名な江戸前の蕎麦店を回った。ランチタイムが終わった二時前を狙う。比較的すいていて接客も丁寧、いろいろと質問にも答えてくださる。
ある浅草の蕎麦店に、そんなタイミングで入ったときのこと。客はぼく以外座敷の奥に一人、着流し姿で座っている渋い老人のみ。とっくりで酒をちびちびとやっている。映画並みのカッコよさだ。
そこに銀行や取引先であろうか、スーツを着た男性が入れ代わり立ち代わり来ては打合せや交渉をしていく。老人はそれに対し、だめだ、分ったと短く答えつつ、また杯をあける。あまりに男前すぎてしばらくぼーっと見ていた。最初は天ぷらをツマミにしていたが、その後そばがきを注文。最後に盛りそばまでたいらげた。なるほど、これがウワサに聞く東京の蕎麦屋酒なのか。そばがきという食べ物も初めて知った。
その後、時間や金銭の余裕ができてくると自分も蕎麦屋酒をやってみたくなった。蕎麦屋酒に必要なのは、いい酒とツボを押さえたツマミ。蕎麦がウマイのは当然だが、江戸前らしい接客こそ期待したいところだ。
「更科堀井」は、まさにこの条件が揃った秀逸な店。酒・ツマミは、たいていの良店には存在するが、休日にリラックスしながら昼酒を飲んでいる自分を、過不足なくいい気分にしてくれる接客。
それは、慇懃無礼であっても丁寧すぎてもいけない。昼酒の悦楽という、心地よくもちょっと後ろめたい自分を、多少つっけんどんなぐらいに軽くいなしてくれる口調、まさに江戸の粋だ。ありがたく頂戴しよう。
総本家 更科堀井の始まり
蕎麦のファンには周知の事実として、麻布十番界隈にはルーツが同じ更科系の蕎麦店が三軒あるが「更科堀井」こそが本流である。つまり、江戸時代にこの地で蕎麦屋を始めた創業者の姓が堀井だった。総本家更科堀井 堀井良教社長は自ら、
「いえ、まあいろいろとあったんですが、それってウィキペディアに書いてありますし、いいことも悪いことも、きちんと事実として正しい視点で説明しています。というより、江戸時代からの更科系蕎麦の系譜が、まさにそこにありますね。
父のこの場所での独立に際し、江戸時代から続く「更科」の屋号に、名字の堀井を合わせてスタートしたのが『更科堀井』です。私がちょうど大学を卒業する年でした。
この場所で改めて堀井の稼業を再興するに当たり、父にとっても後を継ぐ人間がいなければ何の張り合いもない。また、当代で終わってしまうのは支えてくださっている界隈の皆さんにも申しわけない。そのころ、ちょうど私の就職の時期と重なったんです。あまり深く将来を考えていなかった文学青年でしたので(笑)、それで役に立てるならと決め、その後自分が九代目として任されるようになりました。
麻布十番と立川の二店でやってきましたが、二店舗しかないと二番手はずっと二番手なわけで人が育ちにくく組織が活性化しません。そこで新たな出店を見据え、それに合わせる形で新卒を採用し育成する。その繰り返しを実現しようと考えました。ちょうど今、そんな新卒が7年目を迎え、老舗の蕎麦店らしいプライドと一生懸命さを接客や調理場で発揮してくれるようになりました」
堀井社長が語る更科蕎麦の特徴とは
「白い更科蕎麦自体は明治にできたものなんですが、当初は一種の変わりそばだったんです。蕎麦というとグレーというか黒っぽいものが主流だし香りも出るんだけど、この白い麺は、新しいものキレイなものを好む東京の人たちから相当気に入られました。価格は1円と、当時としてはとても高価なものだったと聞いていますが、そんな美しい蕎麦はアッパーな人たちに飛ぶように売れて、当時は財をなしたようです」
今の技術で白い更科粉を作るのはさほど難しいことではないが、当時は相当の技術とノウハウが必要だったそうだ。更科といういわば高級ブランドを擁した結果、確固たる地位を築き、後に全国に広まることとなった。江戸っ子の気性を物語るステキな逸話だ。
更科堀井のこれから
冒頭でも紹介したが、堀井社長の2018年は、いよいよ外に向かって飛躍する年となりそうだ。
「2018年ごろに新たな店を出店しようと決め、逆算して新卒を採用。
新たに店を出したい意向を各方面に伝えたら、様々な物件を紹介していただくことができました。そして2018年9月、日本橋高島屋の新館オープンに伴い、『更科堀井』を出店します。本店・立川店でじっくり修業を積んだ若手スタッフに任せるつもりです。
高島屋店を支えてくれるスタッフには、『更科堀井』の蕎麦や汁の味は徹底的に仕込んできましたが、土地柄や来店されるお客様の要望で変化していくことは容認するつもりです。それが任せるということですから」
国内にとどまらず海外にも蕎麦の魅力を広めるべく、堀井社長は積極的にプロモーションを続けた。韓国にはすでにノウハウ提供している蕎麦と和食の店があり、2010年にはCIAと呼ばれるアメリカの料理大学(The Culinary Institute Of America)でもセミナーを開催した。
堀井家が麻布永坂の地に蕎麦店を創業したのは1789年。実は、アメリカ合衆国初代大統領にジョージ・ワシントンが選出されたのと同じ年。まさにアメリカが「更科堀井」の出店を待っているのだ。
「高島屋店とともに、2018年中にニューヨークにも大手レストラン会社と組んで出店をする予定です。ラーメンがあれだけニューヨークで成功しているので、和食を代表する一つとして蕎麦も負けてはいられないんですよ。ラーメン同様アメリカ人にも受け入れていただけるものを作ります。試行錯誤は覚悟していますが、何より当店は、Since1789って堂々と看板に掲げることができるんです。アメリが独立の年から営業している店というだけで、アメリカ人にとって特別の価値となるような気がしています」
老舗だからこそ提供できる本物とは
堀井社長が常に念頭にあるのは、稼業堀井の看板、そして老舗として本物であること。
「秘伝の味といいつつ、創業時から一切何も変えていないと主張する飲食店もありますが、自分はあり得ないと思うんです。当然昔とは、水も調味料も変わってきてます。それ以上に、お客様の好む味自体が大きく様変わりをしています。ゆえ、歴史あるといえども、少しずつ変化をしていかないと確実に時代に取り残されるんです。老舗だからこそ柔軟に進化も遂げる。それを念じて日々精進をしています。
本物であり続けることって、ずっと真面目に一生懸命取り組み続けることだと考えています。情報があふれ、いろいろなことを言う人もいる。でも、真面目で一生懸命であれば、それはきっと伝わると思うんです。そう信じて自分が率先して真面目に行動し、店長が引継ぎ、若いスタッフにも繋げていく。
例えば、若いスタッフがいろいろと考えてポップを作り、それを店中に貼ってアピールする。お客様の中には、老舗の蕎麦屋なんだから、こんなに派手にすることはないんじゃないのと言われる方もいる。でも私は、皆が真面目に考えてやっているのだから、いろんなトライをしていい。といいますか、きっとそういったお客様のご意見を真摯に受け止めながら、メンバーみんなでいい結果を将来的には出してくれると信じています」
本物という言葉から連想されるのは、頑なさやこだわり。ところが堀井社長は、柔軟に現代や若い世代と向き合い、その中から「一生懸命でありさえすれば」という決定打を示された。「更科堀井」で働く皆さんすべてが持つ、店への愛情と老舗としての矜持。それは、堀井社長の稼業に対する柔軟な姿勢から生まれる先見性に従ってのことなのだと深く理解した。
「更科堀井」
http://www.sarashina-horii.com/
【プロフィール】
伊藤章良(食随筆家)
料理やレストランに関するエッセイ・レビューを、雑誌・新聞・ウェブ等に執筆。新規店・有名シェフの店ではなく継続をテーマにした著書『東京百年レストラン』はシリーズ三冊を発刊中。2015年から一年間BSフジ「ニッポン百年食堂」で全国の百年以上続く食堂を60軒レポート。番組への反響が大きく、2017年7月1日より再放送開始。