第3回 もうすぐ百年。四代目女性社長が大切に継承する東京の洋食文化。
いざ、下町の洋食店へ
東京都台東区根岸。この地名からも、ザ・下町を連想する。
訪れてみると、下町らしい喧騒というよりは穏やかで静かな空気を背中に感じながら歩みを進めた。
「レストラン香味屋」。界隈では特別な威容を誇るが、決して派手さはなく、目立たない小さな看板や背景となじむ建物の配色に、この店が街に溶け込み、地域の人に愛される由縁を知る。
ぼくは職業柄、世界中のレストランを巡ってきた。今月も南スペイン各地とパリを回る。欧米のレストランでいつも感じるのは、ああ、この環境では自分はまだまだ若輩だなという謙虚な気持ちである。自分よりもずっと人生の先輩が、料理にお酒に舌包みを打ち、時にはハメを外して品よくはしゃぐ風景は、自分も将来こうなりたいとの願望を重ねてしまう。
一方、日本のレストランでは、すでにどの店でも自分はベテランだ。同輩や先輩で、家族や仲間とレストランで語らうシーンはほとんど見られず、見渡すと、それなりに食事にお金をかけることのできる若い世代が、楽しく食事をするでもなく会話を交わすこともなく、ひたすら写真を撮っている場面ばかりと出会う。いつも残念でたまらないし、まだまだ外食として未熟で欧米人に学ぶところが多いなと感じる。
ところが「香味屋」は違う。まるでパリのビストロのように、自分よりも年配の男女が、にこやかに会話し美味しそうに食事をしている。台東区という下町で、そして洋食なるカテゴリで、こうした雰囲気を味わえるのは、日本でも本当に稀有な空間であり、この店を一世紀近くに渡って繋ぎ支えてきた四代目宮臺香惠社長やスタッフの皆さんの努力と力量を知る。
1925年創業、香味屋の名前の由来から
そんな宮臺社長とお目にかかり、そして最初の一言は衝撃だった。
「香味屋という名前はね、実は、浅草の神谷バーってありますでしょ、当時、商売として大成功を収めてたんだそうです。神谷バーの初代神谷傅兵衛に、創業者の曾祖父が憧れて、でも同じ神谷にはできないので、香味(かみ)屋としたんです」。
ぼくは自著で「香味屋」とは、明治の時代から21世紀の今に通じる、なんとすばらしいネーミングだろうと書いた。香りそして味。料理の二大要素に加えて、「軒」とか「亭」にせず「屋」としたことが、今になって新しい言葉と受け止められる。みたいな解釈だったのだ。
宮臺社長は続ける。
「創業は1925年 大正14年。元々の店は通りの向こう側、花柳界のど真ん中にありました。花柳界って実は道が入り組んでいて、迷路みたいになってるんですよ。それって殿方が迷い込んで出られないようにとか思うでしょ。でも聞いた話では、奥様が怒鳴り込んできた時にうまく逃げられるように複雑に作ってあるという説もあるんですよ」。花柳界のエピソードも下町でレストランを経営する宮臺社長ならではの造詣の深さだ。
「そんな花街の女性のための香水を主に置く輸入雑貨店を開いたんです。そこにコーヒー豆なんかもあって、じゃ、コーヒー淹れてよ、みたいな要望まで聞くように。その後、喫茶店からミルクホール、レストランへと変化していったんです。曽祖父は香水好きだったので香の文字を使ったんでしょ。そんな気がします」と、続いて衝撃の第二弾。香りも味も、当初は食とは関係なかったという事実が、宮臺社長から初めて聞かされることになったのだ。
しかし、いったんレストランを始めよう下町の皆さんに美味しいものを伝えようと決意して以降の創業者の動きは早かった。ご自身は料理は全くできない人だが、働いてた料理店などから優秀な人材を募ってこの地で本格的なレストランをスタートさせる。第二次世界大戦後、飲食店は通りに面していないとダメだという創業者の考えで、今現在の場所に移ったという。
下町での料理屋の役割
「山の手というのは、奥様がきちんと家にいらして三度のお食事をお作りになられますが、下町は一家総出で夜遅くまで働いている家庭が多いので、なかなか食事の支度ができない。そんなところに、うちの出前の需要があったんです。出前というのは下町の文化なんですよ」と、現在に至っても宮臺社長自らコツコツと出前をされるという言葉は重い。
こうして「香味屋」は、レストランとして順調な船出を見せた。 三代目、宮臺社長の父の代になり、当時からハイカラだった三代目は、銀座の「資生堂パーラー」に通い、東京で最も洗練された、そして価格の高いこの店に憧れたと語る。幼少の宮臺社長は、いつも味のチェック係だった。子供は気を使ったり嘘をついたりしない。その立場で、資生堂パーラーと自分たちの店との味の比較をさせられたという。美味しさの追求を怠ることなく、下町の忙しい家庭にも洗練された香り高い洋食を届ける、そんな独自の文化を醸成しようと試みた姿が、21世紀の「香味屋」まで確実に引き継がれていることは、ここで食事をする老若男女誰もが気づいている。
三代目の父が倒れて、急遽自分が代表を継ぐことになった宮臺社長。元々この場所にて平成4年大改装後の新店舗完成時から店のスタッフに入り研鑚を積んでいた。久しぶりに「香味屋」を訪れた時、店が自分の記憶と違うなあと感じたことを思い出した。記憶の中にある煉瓦造りの「香味屋」は、この時点で今の新しい店舗へと変貌を遂げていたのだ。
香味屋名物メンチカツ
「香味屋」の代表的メニューにミンチカツがある。宮臺社長の話では、この料理は一時中断していたが、三代目が復活させ取り入れた、比較的新しいものだそう。
テレビの取材、インスタグラムの写真など、メンチカツをナイフでカットした際あふれ出る肉汁がシズル感を呼び起こすのが定番だ。でも、あれは肉汁ではなく脂である。わざとに油脂を仕込んで必要以上に脂をあふれさせている店もあるようだ。一方、「香味屋」のメンチカツは正統派。ナイフを入れた際、うっすらと湧き出るスープこそが本当の肉汁。しつこくなくあっさりとしているので、何個でも食べることができる美味しさだ。
さらに、カツの上にではなく下にソースを敷くのも特徴。ソースの水分で揚げたてのクリスピーな質感を損なわないように配慮している。宮臺社長曰く、
「あれはね。もちろんその通りなんですけど、実は、お皿の上でメンチカツが滑ることなく、美しいままでお客様のテーブルまで届けることができますでしょ」とのこと。なんと、そういった利点もあったとは驚きだ。
香味屋の今、そして将来
筆者の個人的なことで恐縮だが、義理の両親の金婚式をこちら「香味屋」で開いた。メインキャストの義父母から、妻の世代の子供たち、そして孫に至るまで、三世代が集まって、どの世代からも納得と幸福の笑顔を見ることができた。まさに嫌いな人は誰もいないのが「香味屋」の創る洋食の世界である。
宮臺社長にはお子様がおられないので、将来の五代目は今のところ未定である。ただ、すばらしい、そして東京らしい食文化を継承するためにこそ、今が大切と語る。 「色々と、亡くなった父や自分自身の問題もあったけど、それらはようやくクリアになりつつあります。今は、幸いにもご評価いただいている料理だけではなく、スタッフの質や経営状態などすべてを最良にして、どこに出しても恥ずかしくない企業にすることが目標」。
百周年まであと7年。
おそらく四代目宮臺社長のときに節目を迎えることになるだろう。大きな重責と、この有形無形の財産を将来に向けてどんな形で残していくか。宮臺社長の細腕に多大な期待がかかるが、それを明るく朗らかに笑って語る彼女に、気負いやりきみはない。
お話を伺っていると、すでに宮臺社長の語り口調、存在そのものが、東京の下町にふさわしい個性と品格なのだと悟った。
【プロフィール】
伊藤章良(食随筆家)
料理やレストランに関するエッセイ・レビューを、雑誌・新聞・ウェブ等に執筆。新規店・有名シェフの店ではなく継続をテーマにした著書『東京百年レストラン』はシリーズ三冊を発刊中。2015年から一年間BSフジ「ニッポン百年食堂」で全国の百年以上続く食堂を60軒レポート。番組への反響が大きく、2017年7月1日より再放送開始。