対話例から学ぶビジネス交渉①~いきなりの価格交渉
目次
交渉は、対立や衝突という問題を解決するプロセスです。時には、相手との対立を避けて協調性を促す会話(Conversation)も必要ですが、対立を前提として、相手に自分の考えを主張する対話(Dialogue)が基本です。
今回は、ビジネス交渉で最も日常的に行われる商品・サービスの売買交渉について、良くある対話例から、価格交渉をテーマに考えてみたいと思います。
<場面>
あなたは、ITシステムを開発・販売しているA社のシステム・エンジニア(SE)です。A社が開発した製品Xは業界初の先端技術を用いており、価格・開発期間共に、他社と比較しても、競争力のある製品です。専用サイトを開設して告知したところ、早速、大手メーカーB社の技術部から、興味があるので説明して欲しいとの連絡がありました。
以下は、A社SEのあなたとB社技術課長による最初の商談場面です。
(なお、内心は相手には発言していない心の声です。)
<対話>
B社発言:
「まず、サイトに提示されている製品Xの標準価格から、15%ディスカウントできませんか。今回、15%ディスカウントして頂けるようであれば、今後の御社との長いお付き合いに繋がるかも知れませんよ。」
(A社内心)
初対面でいきなり価格交渉か・・・・。しかし、B社は大手であり、ここで製品Xが採用されると他のビジネスにつながるかも知れないな。但し、甘く見られたくないので、半分位から交渉しよう。
A社発言:
「それでは、7%ディスカウントということではいかがでしょうか?。」
B社発言:
「いやいや、なんとか15%になりませんか?。」
A社発言:
「それでは、9%ではどうでしょう?。」
(A社内心)
落としどころは、どこだろう?。10%を超えると厳しいな・・・。
この対話例には、交渉の観点から、いくつかの課題があります。その中から代表的な交渉心理である“アンカリングの罠”について、ご説明します。
相手が数字などの分かりやすい条件を提示してきた時、その提示条件を前提として考え、他の条件や自分の提案が考えにくくなる心理を「アンカリング」と呼びます。アンカーは船の碇であり、アンカリングは、交渉中に相手から頭の中にアンカーを打たれるイメージです。アンカリングは、バイアスと呼ばれる心理的な偏りにおいて、最も陥り易いと言われており、アンカリングの罠を乗り越えるのは容易ではありません。特に、双方が十分に議論できていない交渉の初期段階で、分かりやすい数字が提示されると思わずその数字を基準に考え易くなります。
例えば、この事例では、A社は15%ディスカウントの要望に対して、なぜ15%なのか、ディスカウントで得られると期待している長い付き合いとは何を意味するのかという相手の提示条件の背景や理由を確認しないままに、甘く見られないようにと考えて、7%という数字を返し、拒否されると更に、9%にしたところで、どこまで続くかわからず困惑しています。このやり取りは、真にアンカリングの罠に掛かった事例です。これでは、継続的なパートナーシップに展開する可能性は低くなります。
この時点で提示された15%ディスカウントという要望について、①予算の制約があるなど、値引き率後の絶対額に意味がある、②競合と比較しているなど、値引き率や値引くこと自体に意味がある、③パートナーとしての適格性を試しているなど、値引き要望以外の意図があるという少なくとも3つの可能性が考えられます。そのため、理由を確認しないままに回答することは、条件の対立や衝突を広げることになり、双方に価値ある合意が実現できる可能性を低めることになります。
次に、この事例をパートナーシップの観点から考えてみましょう。NRIJ(購買機能を専門とする英国PMMSコンサルティング・グループの日本法人)によるとカルフール(2000年当時、欧州最大、世界第2位のフランス小売事業)には、購買マニュアル(トレーニング・テキスト)があり、値引き交渉について、以下の指示が記載されていたそうです。
(平原由美、観音寺一嵩著、「戦略的交渉力」、東洋経済新報社、2002、P1)
「取引先の見積金額を見たときには、どのような金額が記載されていても、まずは“たじろぎ”、『何ですって!』などと、その見積金額を大声で批判せよ!」
この指示に従った場合、B社の最初の発言は、もっと感情的で強引な内容になるでしょう。もし、あなたが、このようなアプローチを受けたらどうするでしょうか。NRJIによるとこのアプローチに直面した日本企業は、驚き、そして、冷静な対応ができず、大幅な値引きに応じたか、もしくは、取引を断念したそうです。結局、カルフールは、メーカーとの直接取引において、同じ日本製の商品でも、他の小売業より55%も安く仕入れることができたそうです。
一見、大幅な値引きを得たカルフールにメリットがあったように見えます。しかし、その後、カルフールが日本市場から撤退し(2000年末に日本に進出し、2005年)、その原因の一つとして、取引先や品揃えの不足が影響していると言われていることを考えると課題が見えてきます。継続的な取引先と関係を構築し、それを維持することを目指すパートナーシップ交渉の場合、この方法が本当に効果的な方法であるかには疑問があります。
もし、このマニュアルの存在が事実であり、その指示により購買部門が一律の対応をしていた場合、マニュアルの存在が知られていなかったとしても、全ての購買交渉で同じ対応をすれば、同業者の間で話題になるでしょう。そうすると、売主側も、最初に値引き交渉される前提で高めの価格を提示しよう、価格しか評価していない買主だから、品質や商品ラインアップはそこそこの提案に留めておこうという対応になる可能性があり、パートナーシップの視点からリスクを抱えることになります。
それでは、交渉相手がいきなりこのような価格を交渉してきた場合、どのような対応方法があるのでしょうか。有効な方法の一つは、質問をすることです。しかし、「なぜ15%ですか?」と単純に聞いても答えてくれないかも知れません。また、質問を封じられた上で、「YESかNOか?」という説得的なアプローチを受けるかも知れません。
いくつかの対応例をご紹介します。いずれの場合でも、まず、冷静であることが第一です。そして、最初に、相手の要望に対して、回答する目的で質問する意図であることを説明します。その上で、例えば、①製品Xの価格以外の要素(品質、納期、サービス条件等)についての評価を聞く、②A社が通常、製品Xのような製品を購入する場合、価格以外に何を重視しているかについて、購入決定の優先順位を聞く、③A社が過去に価格で特別対応した事例を例示し(例えば、一定の条件が保証された場合、特別な価格対応した事例がある等)、今回の取引で同様の可能性があるかを聞くなどの方法があります。①は視点のシフト、②は一般例の確認、③は例示シミュレーションと呼ばれる方法論です。いずれの場合も、相手の背景や事情(コンテキストという)を聞きだすための質問であり、コンテキストを確認した上で、回答することが重要です。
また、質問は、何を、どの順番で、どのような表現で聞くかにより効果が異なります。いきなり数値を出して価格交渉してくる可能性は十分事前に予想できます。そのため、交渉前に、複数の質問パターンを用意しておくなど、対応策を準備しておく必要があります。更に、上司や同僚を相手役に、事前に模擬交渉(ロール・シミュレーション)をする方法がお勧めです。そうしておけば、多少強引な表現や説得的なアプローチを受けたとしても、落ち着いて対応できるはずです。
<本事例のポイント>
交渉相手が分かりやすい数字を示して交渉してきた場合は、必ず背景にある理由を質問により確認してから回答する。質問は、何を、どの順番で、どのような表現で聞くかが重要であり、冷静に対応するためには、事前によく準備しておく必要がある。
大幅値引きから交渉するなど、最初から強引に説得するスタイルの交渉は、短期的な効果はあり得るが、継続的な取引関係を構築し、その維持を目指すパートナーシップ交渉ではリスクが高く、その方法の選択は、慎重に考えるべきである。
一色 正彦
<執筆担当>
全体監修、交渉学関連
<交渉学との関わり>
欧州で海外企業との技術提携交渉に苦労している時に、英国人より交渉戦略のアドバイスを受け、交渉学の存在を知る。その後、国内外のビジネス交渉に活用すると共に、東京大学(先端科学技術研究センター)と慶應義塾大学(グローバルセキュリティ研究所)の研究に参加し、その成果を用いて、交渉学の研究と学生・社会人に対する教育と人材育成を行なっている。
<アカデミック・バッグラウンド>
大阪外国語大学(現大阪大学)外国語学部卒、東京大学先端科学技術研究センター先端知財人材次世代指導者育成プログラム修了
<ビジネス・バックグラウンド>
パナソニック(株)海外事業部門(主任)、法務部門(課長)、教育事業部門(部長)を経て独立。大学で教育・研究を行なうと共に、企業へのアドバイス(提携、知財、交渉戦略、人材育成)とベンチャー企業の育成・支援を行なっている。金沢工業大学(K.I.T.)大学院客員教授(イノベーションマネジメント研究科)、東京大学大学院非常勤講師(工学系研究科)、慶應義塾大学大学院非常勤講師(ビジネススクール)、関西大学外部評価委員会委員(大学教育再生加速プログラム)、(株)LeapOne取締役(共同創設者)、合同会社IT教育研究所役員(共同創設者)
主な著書:「法務・知財パーソンのための契約交渉のセオリー」(共著、レクシスネキシス・ジャパン)、「ビジュアル解説交渉学入門」、「日経文庫 知財マネジメント入門」(共著、日本経済新聞出版社)、「MOTテキスト・シリーズ 知的財産と技術経営」(共著、丸善)、「新・特許戦略ハンドブック」(共著、商事法務)など。