【台湾】李登輝氏、終生訴えた「自信持て、日本人」[政治](2020/08/03)
台湾の李登輝元総統が7月30日、台北市内の病院で亡くなった。97歳だった。総統任期期間には、台湾の民主化に多大な貢献を果たした。経済面でも、農業経済学者だった素養を生かし、1990年代の台湾の飛躍的な経済成長を支えた。日本統治時代の台湾で生まれ育ったことから、晩年は日台関係の強化に尽力。関係者によると、「日本人よ、自信を持て」と訴え続けていたという。
李氏は30日午後7時24分、入院していた台北栄民総医院で、多臓器不全などのため死去した。台湾メディアによると、李氏は今年2月8日の食事中に、喉を詰まらせて入院。その後、肺や腎臓などの機能不全を併発したことで、入院は長期化。7月23日以降は昏睡状態に陥っていた。
台湾内外から哀悼の声が寄せられた。民主進歩党(民進党)の蔡英文総統は30日に李氏を追悼する声明を発表。「台湾民主化の過程で、李氏がもたらした貢献は他に取って代わることのできないもの」として、李氏の功績をたたえた。李氏が2001年まで籍を置いた中国国民党も同日、「李元総統は人々に新しい人生をもたらした」とする声明を発表した。
日本の安倍晋三首相は31日、「痛惜の念に堪えない」などとコメント。同時に「日本と台湾の親善関係に多大なご貢献をされた方」と李氏をしのんだ。
■無血の民主化推進
李氏は1971年に国民党に入党。88年に本省人(台湾出身者)として初めて総統に就任した。00年に退任するまでの約12年間で6度の憲法改正を行うなど、大々的な政治改革を推進。94年には初の旧台湾省長と直轄市長の直接選挙、96年には初の総統直接選挙(李氏自身が当選)をそれぞれ実施。就任時は中国国民党の事実上の独裁下にあった台湾を民主主義社会へと変貌させた。
李元総統の最大の功績は、血を一滴も流さず民主化を進めたこと――。そう指摘するのは、李氏が主催する李登輝基金会の早川友久顧問。当時の国民党幹部の多くは、戦後に中国から台湾に渡った外省人。早川氏によると、党内で孤立しそうな環境下にあっても、李氏は内部の保守派と対話をしつつ、政治改革に着手したという。
■1人当たりGDP約2.3倍に
李氏は政治面だけでなく、経済面でも台湾に多大な貢献を果たした。任期中の年間の経済成長率はおおむね6~9%を確保。88年に6,370米ドル(約67万円)だった1人当たり域内総生産(GDP)を00年には1万4,908米ドルまで押し上げた。
中国への投資規制を緩和し、中国経済の拡大を台湾経済の成長につなげた。一方、任期後半には中国への資金流出による台湾経済の空洞化を危惧。中国投資に制限を設ける「戒急用忍政策」を打ち出した。米中貿易摩擦を経て問題視された経済的な中国依存に、早くから警鐘を鳴らしていた人物とも言える。
早川氏は、「李氏は元々農業経済学者であり、国民党内では経済政策で結果を出すことで、地位を上げてきた部分がある」と説明。政治改革の陰に隠れがちだが、経済面でも成果を収めた政治家だった。
■「日本統治の光を見てほしい」
李氏は日本が統治していた1923年の台湾で生まれた。京都帝国大学(現在の京都大学)に進学するなど、日本語で教育を受けていることから、終生日本との関わりを重視してきた。
早川氏によると、特に晩年は日台の交流活動に心血を注いでいた。李登輝基金会は毎年2回、日本人50人前後を台湾に招き、台湾への理解を深めてもらう研修活動を開催。李氏は同研修で必ず講演を行い、日台の相互理解促進に尽力した。
中でも繰り返し口にしたのが、「日本の若者にもっと自信を持ってほしい」とのメッセージ。早川氏によると、李氏が日台交流を促進する背景には、日本人に日本統治が台湾にもたらした功績を見せ、自信を持ってもらいたいとの思いがあった。
日本の台湾統治に影がないとは言わない。ただ、より多くの光を与えてくれた――。日本語世代が減少し、日台の相互理解が希薄化することへの危機感を胸に、李氏は生前そう訴えていたという。