私の平成金融史
平成の時代が間もなく幕を下ろします。
筆者はまさに平成の時代を駆け足で走りました。
今回は為替市場、金利市場を中心に、そんな私の平成金融史を駆け足で振り返ってみたいと思います。
平成金融史の始まり
平成元年の1989年は為替ディーラーとしてちょうど油の乗った時期。プラザ合意(※1)という為替の歴史では大きなイベントから4年が経ち、円高が定着しました。株式市場では、この年の大納会で、日経平均歴史上最高値38,957円を付け、バブル景気の絶頂期を迎えます。
そして、その翌年からはバブル崩壊の足音が徐々に聞こえることになるのです。
※ プラザ合意:1985年9月22日、過度なドル高の是正のために米国の呼びかけで、米国ニューヨークのプラザホテルに先進国5カ国(日・米・英・独・仏=G5)の大蔵大臣(米国は財務長官)と中央銀行総裁が集まり、会議が開催された。為替相場(ドル/円)は1日で235円から約20円下落し、1年後には150円台で取引された。
こうしてみると、為替、金利、株式市場での大きな変動から私の平成金融史は始まり、そして失われた20年とも称された時代を生き抜き、そして21世紀を走る流れのようです。
あるスイス人ディーラーの言葉
為替市場では、平成時代は「円高と称される時代」と言われました。
今どきのサラリーマンの方々には250円を超える円安時代を経験している人は少ないのではないでしょうか。
下記のチャートは、1994年(平成6年)時から現在までのドル/円のチャートを示しています。
平成の時代をすべて網羅するチャートとしては若干足りないのですが、ある程度の流れが理解できる内容です。
1994年以前は、1990年(平成2年)には150円までプラザ合意時点の235円から円高が進み、そしてチャート上に描かれている110円時代に突入してきました。
当時はスイス系銀行のディーリングルームに在籍おり、スイス人ディーラーが夏休みに帰国する時期になると、チューリッヒからベテランディーラーが出張で来ることになっていました。
彼は為替の世界で大変有名なディーラーであり、互いに親交を深めることができました。
彼の言葉で特に印象に残っているのは、「1ドル=100円と考えるのが良い」ということです。
まだ200円時代が脳裏にこびりついている時代です。
その言葉を聞いて、これからはそうなのかもしれないと思い始めました。
平成初期の日本の為替状況
当時はまだ、ディーラーが100円以上の円高を想像できる時代ではなく、日本は自動車、家電の輸出などで米国との間で巨額貿易黒字を計上していました。
米国政府からは貿易黒字の是正策の一つとして為替レートの修正を強いられており、榊原財務官がミスター円として名を馳せた時代でもあります。
1995年(平成7年)4月になると、80円を上回る円高局面が到来し、日本の投資家、特に生保などの機関投資家は、米国不動産を買い漁る時代を謳歌しました。
しかし、円高ということで、日本の輸出体質の経済は急速に冷え込み、生保は体力を弱め、次々の不動産を売却せざるを得ない状況に陥ります。
株式市場でも一気に株価を下げることになり、バブル崩壊の真っただ中、日本企業の資産が急速に縮小することになってしまいました。
当時、筆者は為替から金利の世界に入りつつある時期にありました。
為替の直物(スポット)取引中心から、先物(フォワード)取引中心の業務内容に変化していたのです。
そしてその後、資金繰り操作、金利取引を中心に業務が変わっていったことで、為替の動きと共に、金利の動きを注意深く見ることになりました。
バブル崩壊後の日本
1995年(平成7年)を過ぎると一旦は140円、130円には達するものの、その後はまた急速に円高が進む為替相場が続きます。
輸出企業の財務担当者は、何とか円安方向が続くことを願っていたのですが、どうしても外圧、主に米国当局者からの政治的圧力が強く、結果的に円高局面が繰り返されることになります。
2012年(平成24年)前後には再度80円を超える円高を示現することになります。
この頃になると輸出構造からの脱却、つまり新たな収益源の産業を国内的に創生しなくてはいけないと言われました。
しかし現状を見ると、平成最後の年になっても、結果輸出体質の産業構造を変えることはできていないとも言えます。
政府と民間が一体となった新しい産業、例えばデジタル時代におけるインターネットやスマートフォンなどの先端テクノロジー産業分野で世界的に生き残れなかったのは残念でならないと筆者は思っています。
令和の時代には、再度チャレンジしてほしいものです。
「1ドル=100円の時代」
こうして振り返ってみると、平成最初の時代にスイス人ディーラーから言われた、「1ドル=100円の時代」が依然として正しく、そして大きく円安にも円高にも触れることのない為替相場に収斂してきていることがわかります。
平成の時代に入ってからは大円高時代となり、80円を割り込む円高を2度、そして2000年(平成12年)にも80円台を経験しました。
また円安局面に振れても、130円台を一度、そして2度の120円台の円安局面を迎えましたが、どちらも長期間続かない相場で終始しています。
こうなってくると、企業の為替相場感はどうしても円高局面を意識した為替戦略をとることになってくるでしょう。
結果として、企業の自己防衛から、ある面で企業の内部留保を増やすことにつながったのではないでしょうか。
金利面から見る平成
金利面について検証すると、日本銀行は、平成時代には一貫して低金利政策を続けることになりました。
バブル崩壊から、企業に流動性を供給する使命を負うことになったのです。
下記のグラフ(出所:日本銀行)は1955年以降の公定歩合の推移を示しています。
これを見ると、戦後の高い公定歩合の歴史、そして1989年(平成元年)以降の急速に公定歩合を引き下げる日銀の金融政策の方針が明確に表れています。
バブル崩壊が始まったと言われる1991年(平成3年)には6%をつけ、それ以降は、日本経済の低迷と共に、日銀の苦戦が続き、そして2001年(平成13年)から0.1%というゼロ金利政策が続くことになるのです。
低金利とリスク管理の時代
1990年代、平成も中盤に差し掛かった頃から、金利を含めた金融界に生きてきた筆者としては、平成は金利で大きく儲けられない時代でした。
日本の金利全体が低金利になり、銀行も金利では稼げない時代に突入したのです。
後で考えると、なぜあの時代に金融機関は大きく経営資源を別の方向に向けることは出来なかったのか疑問を持ってしまいます。
それとともに、平成という時代はリスク管理が徹底しはじめた時代だったとも言えます。
初期の為替ディーラー時代は、ポジションを取っても各自ポジションがどの程度であり、リスク度が把握できない時代でした。
その後の金利ディーリングでは、0.01%変動でのリスク管理が導入される時代が始まりました。
技術革新がディーリングの自由度を奪い、大らかな時代の終焉であったと見ることも出来ます。
AIディーリング全盛の時代は次の時代にも引き継がれるのでしょう。
まとめ
平成の時代には、金融界に誇りと辛さを感じています。
バブルの時代を金融界で謳歌できたことは誇りと言えます。しかしその反動はあまりにも大きなものでした。
平成から令和の時代に変遷してゆくこの時代にも、金利は当分の間、低金利で推移、デフレ経済からの脱出を図ることになります。
為替(ドル/円)も大きく変動することのない時代が続くことになるでしょう。
低金利、安定した為替を前提に、平成から令和の投資戦略を考えたいと思います。
«記事作成ライター:水谷文雄»
国際金融市場に精通するInvestment Banker。
スイス銀行(現UBS銀行)にて20年余に亘り外国為替および金利・債券市場部門で活躍、
外銀を知り尽くす国際金融のプロフェショナル。新興の外国銀行(中国信託商業銀行 )の
東京支店開設準備に参画しディーリング・ルームの開設を手掛ける。
プライベートではスペインとの関わりを深く持つ文化人でもあり、
スペインと日本との文化・経済交流を夢見るロマンティスト。