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父と「闘い」ながら次代への道を拓く4代目社長。受け継いだのは“守るより攻めろ”の経営信条

マルソー株式会社
代表取締役社長
渡邉 雅之

100年企業の歴史。それは、物流の発展と切り離しては考えられない歴史といえるかもしれません。人力から馬車へ、馬車からオート三輪へ、そして戦後は飛躍的なモータリゼーションの時代へ。生活スタイルの変化と並行するように物流ビジネスは進化し、常に新しいサービスを生み出してきました。

新潟県三条市に本社を置くマルソー株式会社。その歩みは、まさに日本の物流の歴史をなぞるかのようです。1913年に馬車による運搬業からスタートして以降、時代のニーズに合わせて変化を遂げてきました。近年においては、ロジスティクスへの取り組みや異業種への参入によって、次世代に向けた足場を着実に固めています。

現在会社の指揮を執るのは、4代目となる渡邉雅之社長。彼が代々受け継ぐDNA、事業の考え方、また企業としての歴史や未来について、お話をうかがいました。

トラックをゆりかご代わりに育った

「うちの会社を襲ったピンチというのは、実は外的要因だけではないんです。」

と、渡邉社長は自嘲気味に笑います。創業者は渡邉社長の曾祖父にあたる渡邉寅治氏。その逸話のいくつかを、渡邉社長は伝え聞いています。

「非常に事業意欲が旺盛だったそうですが、一方では博打が好きで、賭けに負けてはずいぶん田畑(でんぱた)を取られてしまっていたらしいです。後に2代目となる祖父は、夜学校に通いながら働いて、少しずつ土地を取り戻していったといいます。

事業意欲旺盛なDNAは祖父も受け継いでいたようで、その後三条に移って事業を拡大していくんですが、父が高校2年の時、今度はその祖父が会社の事務員だった女性と駆け落ちのような感じで失踪してしまいます。社員はあきれて辞めていってしまい、男手として働けるのは父だけになってしまいました。祖父が戻るまでの2~3年、父はまだ免許もないのにオート三輪に乗って仕事をし、友達のノートを借りたりしながらなんとか学校の勉強も続けたそうです。修学旅行に行くお金もなく、友人たちがカンパしてくれたお金でなんとか参加できたとか。当時の同級生や高校には今も感謝してもしきれないようです。」

社員が去り、ゼロベースからの再スタートとなったマルソー。今や新潟を代表する物流会社に成長しましたが、半世紀ほど前にはまさに風前の灯火と言うべき時代を経験していたのでした。幼い頃の記憶を、渡邉社長はこう手繰ります。

「とにかく貧乏で、雨漏りするような家に住んでいましたから、欲しいものも買ってもらえず裕福な感覚はまったくなかったですね。父は、仕事をいただくと自らトラックを運転して荷物を運んでいました。県外まで物を運ぶ時には母と私も一緒に乗っていったりして、トラックをゆりかご代わりに育ったようなものです。私は大学を出た後に東京の同業他社に修行に出て、現場作業もたくさん経験しましたが、ターミナルにたくさん停まっているトラックのディーゼルの匂いを嗅いだ時、懐かしいというか、ほっとした気持ちになりました。新潟に戻り長距離運行に出た際にトラックのベッドで寝た時にも、なんとも言えない安らぎを感じて、やっぱり天職なんだと思ったものです。

やらざるを得ない状況で父は事業をスタートしましたから、感覚的にはほぼ自分が創業したようなものだと思っているようです。うちの母も“人の3倍働いた”と言っていますし、父も小型から大型のトラックにいち早く切り替えたり、クレーン車を導入したり、どんどん営業所を増やしたり時代の先を見据える手を打ちながら努力して、私が小学校高学年ぐらいになると暮らしもずいぶんよくなりました。なぜそう感じたのか? それは、帰ってきた祖父がアメ車に乗り始めたからです(笑)。」

大手コンビニの物流センター運営で飛躍

なぜ先代である父・喜彦氏は、逆境にも負けず事業を立て直し、かつ以前以上の拡大を実現できたのか。そこには、渡邉家に代々受け継がれている事業への考え方があるのではないかと、渡邉社長は言います。

「不況やピンチの時こそ果敢に攻めてきたのが我が社の経営の特徴です。守るより攻めろと。例えば、厳しい時にあえて新しい営業所を出すとか。普通は厳しい時には無理なことはしないものだと思いますが、うちはいつも真逆の選択をするわけです。みんながいい時に手を打っても差はつきにくいですが、悪い時に手を打てば差が開きますからね。」

渡邉社長は平成6年にマルソーに入社。事業意欲旺盛な攻めのDNAを受け継ぎ、社長に就任するまでの10年間においてさまざまなトライを試みます。

「3年間東京で働いて、最先端の物流センターの仕組みを学んできました。そこからうちの会社に戻ったものだから、どこもかしこもダメに見えるわけです。その批判を父にぶつけるんですけど、父は“お前は文句は言うが一円も稼いでいない。まず金を稼いでから文句を言え”と言うんです。悔しいですがその通りだなと。

そこで立ち上げたのが、<引越サービス・ムーブくん>です。一般のお客様、それも新築引っ越しにターゲットを絞って、新しく入ったメンバーだけでスタートしました。3年で年間売上約1億円、営業利益3千万を上げる部門に成長させることができ、そこでだいぶ父に認めてもらえた感覚はあります。」

さらに平成13年、物流からロジスティクスへ事業の舵を切ろうとする中、大手コンビニチェーンの物流センターの物流センター一括運営を請け負い、大きな転換点を迎えます。

「一般的なコンビニチェーンの物流は、コンビニから発注を受ける問屋さんが物流センターを運営していて、その物流センターと運送会社が契約して物を運ぶ流れです。それを、運送会社であるうちが物流センターそのものを運営し、一括して受注する流れにしました。商品が多く高い出荷精度が要求されるなか、独自のシステムを構築し、コンビニにおけるロジスティクスのひとつのモデルケースを作ることができました。誰もが知っているコンビニブランドの仕事をやりきったことは自信につながりましたし、他社さんからも、“それができる会社なら安心だ”と思っていただき、いろいろな新しい仕事にもつながりました。」

「やってみないと気がすまない性格」で多角化へ

そして平成16年、満を持して社長に就任。時代に対応し物流の事業をスリム化しつつ、徐々に現在に至る多角化への道を探る経営がスタートします。

「父の時代は拡大路線の時代だったんですね。県外にも営業所を出したりしながらどんどん事業を広げていましたし、私も最初はそういう考えでした。しかし、営業所や社員の管理のことを考えると、県外にまで目を配るのは正直しんどい。それなら得意である新潟県に特化し、物流を核にしつつ異業種も含めた事業を展開すべきだと考え、方向転換しました。飲食業もやってみましたし、いろいろなことに挑戦して、失敗した事業もたくさんありますけど、やってみないと気がすまない性格なんです。私も父も。やっぱり“守るより攻めろ”なんですねよね。」昨年からは物流の未来が危うい気がして異業種のM&Aに積極的に取り組んでいます。

先代である父は現在も経営に関わり続けており、意見が衝突することもしばしばだとか。しかし、どんなに仕事でぶつかったとしても、2人には暗黙のルールがあるのだと言います。

「社長に就いてからの苦労というのは、経営の苦労というよりも、親父と私の関係における“闘い”の苦労です。父には父の考えがあるし、私も生意気なほうなんで、すぐ喧嘩になります。ただ、絶対に家ではそれを引きずらないようにしています。会社ではさんざんバトルして、お互い“いなくなってくれ”って思うぐらいなんですけど(笑)、帰ってからは、お互いにムスッとしつつも、ちゃんと同じ食卓で並んでご飯を食べるようにしています。何回出て行こうかと思ったか、何回出て行けと言われたか、何回クビって言われたかわかりませんけど、逃げられるものではないですし、私の代わりに誰かができるものでもないですからね。それに、やっぱり父の苦労話を聞けば、自分もちゃんと息子に渡さないといけないと思いますので。」

社長になってみないとわからないことがある

まもなく50歳と、ビジネスの世界においてまさに脂の乗った年齢に差し掛かった渡邉社長。一方では、長男の惣太氏がすでに取締役に就任しており、事業承継にも不安はないようです。

「物心ついた時から“お前は後継ぎだぞ”と言って育ててきましたし、名前が惣太ですからね。“惣”の字は、うちの屋号でもある「丸惣」にもありご先祖様から長く名前に使われている字で、“心に物を乗せて運ぶ”という会社の精神を表す字でもあります。うちは代々、じいさんが孫の名前を付けるルールがあって、私も孫3人の名前を付けましたが、息子の名前は“マルソーを太くしてもらいたい”という想いで父が付けました。本人も特に抵抗なく、当たり前のように感じてくれていると思います。

自分が好むと好まざるとに関わらず、早めに代替わりしてきた歴史がうちにはありますので、私も60歳になったら代表権を息子に渡そうと思っています。社長をやらないとわからないことって、やっぱりあるんです。私も副社長から社長になった時、ただ<副>が取れるだけの話で大して変わらないだろうと思っていました。でも、実際その立場になるとまったく違いました。責任の大きさ、最終判断の重さ。これはやっぱり、やらないとわからないものだと思います。」

100歳を超える先々代の奥様からお孫さんまで、5世代11人の大家族が同居で暮らし、“ビジネスは家族がまとまってこそ、うまくいくもの”と語る渡邉社長。その言葉の端々には、家族、家業に対する深い思いが感じられます。最後、やがて五代目となる惣太氏にどんな経営基盤を残していくのかを、愛情を込めて語ってくれました。

「私が継いだ時とは規模も4倍位と違いますし、何より事業内容も幅広くなり子会社の数も非常に多くなっていますので、これをすべて1人で見るのは難しいだろうと思いますし、1人の社長がすべてを見る時代でもなくなってきていると思うんです。社内には公言していますが、私が60歳になるまでの10年間に20人の社長を誕生させるぞと。そして、息子にはそれらの会社を取りまとめるホールディングスの社長になってほしいと思っています。そうすれば、それぞれ事業の異なる会社であっても専門家的な社長集団が支えてくれるでしょう。私も会長としてしばらく残ることになるとは思いますが、息子とは、父と私のようにバトルすることなく、いい関係を保ってお互い事業に向き合い続けたいと思います。」(提供:百計オンライン)

(取材・文 髙橋晃浩)


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