本当は教師になりたかった老舗薬問屋の9代目が創業300周年を前に語る事業承継へのロマン
中北薬品株式会社
代表取締役社長
中北馨介
創業家に残る160余年前の失態の名残り
名古屋中区の旧京町。現在の名古屋市中区丸の内3丁目付近は、江戸時代中期以降、薬を扱う商人が集まり、大阪の道修町と肩を並べる薬の問屋街としてその名が知られていたという。
その一角、久屋大通公園に面した一等地に本社を構える中北薬品は、享保11(1726)年創業。初代中北伊助が中区伝馬町6丁目で油屋を開業したのを始まりとし、2代目伊助が薬種業を兼業し京町に移ったことが、現在の事業にまでつながっている。
しかし、この京町は安政2(1855)年、その一帯を焼き尽くす大火に見舞われている。その火元となったのが、当時4代目の伊助が切り盛りをしていた今の中北薬品だった。中北家には、それから160年以上が経った今も、その失態の名残りが家の伝統として受け継がれているという。現在の社長、中北馨介氏はこう語る。
「うちの当時の丁稚さんが風呂を空焚きしてしまって、そこから大きな火事になった。500m四方が燃えたと伝わっています。その後、慶応2(1866)に店舗を再建するんですが、その時は周囲へのお詫びの意味を込め、周囲よりも屋根を低くして家を建てたそうです。
火を出したのは2月25日。時代が変わって火で風呂を焚く時代ではなくなりましたが、うちは今でも毎月25日は風呂に入っていません。おそらくこれは安政の時代から我が家で続いているのだと思います。僕も毎月25日の朝は、風呂場のカビ掃除をすることにしています。」
“社長の息子”と言われるのが嫌だった
馨介氏は初代から数えて9代目にあたるが、前社長・現会長である父・智久氏との幼少時の記憶に、家業と結びつくものは少ないという。
「僕が生まれた時のアルバムに、おそらく親戚が描いた僕の似顔絵が貼ってあって、その絵の横に“お世継ぎ生まれて万々歳”と書いてあったのは覚えています。正直“重てえな”と今でも思いますけど(笑)。
うちでは仕事の話をしない父親でしたから、茶の間で何かの書類を難しい顔で見ていて、今は邪魔できないなというのを感じていたぐらいの記憶しかないですね。物心ついた時にはもう薬の問屋をやっていることはわかっていましたが、特に家業に興味を持つこともなかったです。」
その後、北里大学薬学部に進学。しかしこれも、家業を継ぐことが前提だったわけではないと言う。
「本当は学校の先生になりたかったんです。ボーイスカウトをやっていたんですが、後輩たちから上級班長になってほしいと言われたり、自分より下の子達から何かを求められることがよくあったので。でも、それを母親に言ったら“何を考えているんだ、家が何屋かわかっているのか”と怒られました。
先代・先々代とも明治薬科大学の出身でしたが、僕は単科大学より総合大学に行きたかったし、親の後輩になりたくなかった。別に親と喧嘩をしていたわけではありませんが、僕まで明治薬科大学に入ったら親子3代がすべて紐づけられてしまいそうだし、そもそも“社長の息子”と言われるのが嫌でしたからね。」
理に通らないことはしたくない
大学を卒業後は、武田薬品に入社。MRとして約2年間の勤務を経て、平成3年の夏に中北薬品へと入社した。
「もともと帰る気はなかったんですが、ちょうど会社が265周年を迎える時期で、それを一緒に迎えたいということで戻ることを決意しました。
ところが、入社すると、僕の入社後半年分のストーリーが出来上がっていた。社内規定や財務諸表を2週間で頭に叩き込んで、それが終わったら焼津の物流センターに行って、そのあと天塚センターに行って、それが終わったら小さい支店の支店長を2ヶ所、大きい支店の支店長を1ヶ所やって、すぐ営業本部長というストーリー。外で2年しか経験を積んでいないのに半年そこそこで本部長だなんて、僕だったらそんな奴の言うことなど聞きませんから。今でもそうですが、社長の息子だからと言って理に通らんことはしたくなかったんです。」
結局、薬品業界における営業の最前線であるMS(マーケティング・スペシャリスト)や社内システムの本部長として経験を積んだ後、入社14年目で社長に就任した。節目である創業280周年を2年後に控えた中でのトップの交代は突然言い渡されたという。「280周年はお前が作れ」ということだったのかもしれないですね、と社長は振り返る。
男のロマンで言えば、継がせたい
社長に就任後は、システム本部長としての経験からITの必要性を強く感じ、日本ヒューレット・パッカード、NEC、富士通の出資のもと情報システム開発・運用受託、コンピューターソフトウエア販売事業を展開するICソリューションズ株式会社を設立。同社の社長も務めている。その背景には、時代に沿ったサービスを展開することへの意欲と同時に、薬品業界の厳しさに対する危機感もある。
「あと数年で中北薬品は300周年ですが、現在の薬価制度のもとでジェネリック製品がどんどん増えていけば、売上は間違いなく減ります。ですから、これからは業態変更も含めた思考の転換をしていかないといけません。だからこそ、これからはICソリューションズとうちで、システムを使って何ができるかということをきちんと考えたいと思っていますし、中北薬品自体も、それが発想できる会社にならないといけないと感じています。若い社員にも、遠慮しないでどんどん提案してほしいという話をしています。
一方では、東海・東南海地震の発生が危惧される中、地元以外にも拠点を持つべきだという発想のもと、北海道北広島市の輪厚工業団地に新しい製造工場を建設し、2017年1月から操業を始めました。これもICソリューションズと同様、300周年以降の会社を引っ張る一つの車輪になってくれればと思っています。」
こうして次代へ向けて着々と地固めを勧める中北社長だが、その事業の承継についてはどのように考えているのだろうか。
「うちはまだ長男が5歳ですから、もしかしたら息子の前に10代目の社長を作らないといけないかもしれません。そもそも社長をやりたくないと息子が言うかもしれませんし、僕自身、そもそも中北薬品なんてどうでもよかった人間でしたからね。
でも、男のロマンで言えば、継がせたい。苦しいやろうなと思いますけど、私も周りの人にも恵まれているので、そうやって助けてくれる仲間がいれば、やっていけるんじゃないかと思っています。僕自身も、鮭じゃないですけど、帰るべきところに帰ってきたということなんじゃないかなと、今の自分を捉えています。」(提供:百計オンライン)