「のれんへの愛着と誇り」会社のピンチを乗り越え、次世代を育てる若き社長の原動力築地玉寿司 代表取締役 中野里陽平
それまで寿司屋にはなかった、「食べ放題」メニューを導入するなど、若者や女性に親しまれる店舗展開に取り組む「築地玉寿司」。関東大震災を機に築地で創業、昭和の時代に店舗を急拡大するも、バブル崩壊で大きな負債を負い、今では想像もつかないほどの危機的な財務状況に陥ったこともあるという。
そのタイミングで家業を引き継いだ中野里陽平社長は4代目。彼が達成した奇跡とも言えるV字回復の原動力は何なのか。留学で学んだチーム作りの大切さや、銀行やテナント会社との苦しい折衝など、熱意のこもる中野里社長の言葉に耳を傾けた。
(聞き手:仙石実・公認会計士、税理士/構成:株式会社フロア)
関東大震災を機に築地で創業、昭和に店舗拡大
(仙石)玉寿司の歴史を教えてください。
中野里 1924年の3月に祖父の中野里栄蔵が創業しました。前年1923年に関東大震災が起きて、東京は焼け野原になり、それまで日本橋にあった市場が築地に移転するという噂がありました。静岡でマグロ問屋をやっていた祖父は「一旗揚げようじゃないか。俺は寿司屋になる」と一念発起して、築地に寿司店を開きました。修業先だった麻布の「玉寿司」から、「のれん分け」をしていただいたそうです。
ところが、太平洋戦争で被災し店は焼失してしまいました。祖父も脳溢血で倒れて帰らぬ人となってしまったのですが、祖母は子ども4人を抱え、祖父が残した「玉寿司を頼む」という言葉を守るために、GHQが商売を禁止した3年間は、市場で干し芋を売って日銭を稼いで食いつなぎ、その後に店を再建したのです。
祖母は「板前がいないなら自分で握る」と言って奮闘していたましたが、やはり、寿司職人ではありませんからいろいろと苦労をしたそうです。その後、良い番頭と板前が見つかり店を切り盛りして行きました。
(仙石)1965年に3代目としてお父様がお店を継がれました。
中野里 父は事業家としての才覚がありました。
1964年の東京オリンピックの時に、今は取り壊されてありませんが渋谷に東急プラザができました。「最上階に2号店を出店したい」と直談判したら話が通りました。サンプルケースを作ったり“明朗”会計の仕組みを作ったりして、女性客が入りやすいようにしたことでお店は繁盛しました。
この店が本店の売り上げを抜いた時点で、祖母は父に代を譲りました。その後、関東を中心に店舗を拡大しましたが、事業展開が成功したのはとにかくお店を出せば行列ができた昭和という「よき時代」のおかげもあったと思います。ただ、人材育成や戦略的出店というものについて、今ほどシビアに考えなくてもよかった時代だと思います。
留学経験でチームワークに目覚める
(仙石)飲食業を勉強するために、アメリカに留学されたそうですね。やはり、「跡継ぎ」を意識されていたのでしょうか?
中野里 大学生の頃から「家」を意識していました。
学生時代は玉寿司、親族が経営する築地の仲卸、他の飲食店で、飲食業の経験を積むためにアルバイトをしていました。当時の業界は人使いが荒く競馬や賭け事の「武勇伝」ばかり聞かされて、「いずれこんな大人たちに囲まれるのかな」と思うとちょっとイヤになりました。「飲食という仕事は魅力的で価値があるものなのだ」と、自信を持って言えるようになんとかしなければ、自分は耐えられないと思ったのです。
そんな認識を変えることができたのは、アメリカで学んだレストランビジネスのおかげです。この経験は、現在でも相当活きています。当時、面白い経験をしました。学生生活の最後に一番厳しい「チームプロジェクト」がありまして、コンサルタントが報酬をもらって行うレベルの市場調査を、4人1組でやらされるのです。
プロジェクトのテーマは、「このエリアでホテルを経営する場合、どうすれば最大収益が上がるのか、客室数の規模やホテルのコンセプト、イメージを、ありとあらゆる情報を調べ上げその根拠を示せ」という超ハードなものでした。
あっと言う間に優秀な人間同士でグループができてしまい、私は、最後まで残った日本人の男子学生2人と、授業に出てこないイタリア人の4人で組むことになり、「あいつら最下位だな」とクラスメートからクスクスと笑われていました。
ところが5週間ほど経ったときに、一番優秀なチームが仲間割れしたのです。お互いが譲らず、チームは機能しなくなりました。その一方で、チームがうまく回り始めたのは自分たちでした。
プロジェクトでは数値分析と文章力の2つが求められます。日本人は英語でハンデキャップがありますが、数字には強い。文章の色付けは口八丁手八丁なイタリア人がやってくれました。自分たちは結局、最高得点をもらいました。
その時私が学んだことは、個々の能力の高さよりもそれぞれが強みを持ちあって、いいチームワークでやることが最大の成果をもたらすということです。
(仙石)職人気質の寿司職人が折り合いをつけるには、そのような調和力が効いてきそうですね。
中野里 そうですね。ただでさえ個が強いのが職人ですから。
「どんな優秀な板前でも一人で店を回せない。だから、みんなで力が発揮できるようにいい雰囲気を作ろう」と教育しています。留学時代の経験から、お互いの強みを活かせばその相乗効果で誰よりも負けないものになることを学びました。
私には、優秀な人材を採用しなければ会社がダメになるという考えはありません。それよりも、チームワークで物事を進められるタイプのほうが事業で成功すると考えています。だから、うちの板前も腕自慢というよりは、みんなでいい雰囲気を作り上げるタイプが多い。これがいいと思っています。
海の幸を最もおいしくする食は寿司
(仙石)玉寿司さんのこだわりは「素材を生かす」「人を育てる」「モノを大切にする」だそうですね。
中野里 海の幸を最もおいしくする食は寿司だと思います。鮮度が大事でソースで味をいじらない。旬で新鮮な素材が持つうまみをいかに引き出すのか。そのために、素材選びからきちんとしようという職業だと思います。
現在、新入社員をトレーニングしています。ぐずぐずやらずに包丁で「スパっ」とおろすことが、ものすごく大事なのです。そのためには、魚の構造を理解していないといけません。そのような意味でも「素材を活かすために技術を磨きなさい」と言っています。
「人を育てる」ということは、ロボットではなくあえて人が握るという理由を大事したいということです。どんな人間に握ってもらいたいのかといえば、やはり、「おもてなし」ができる人でしょう。
「この人に握ってもらいたい」と思ってもらえるよう、「腕自慢だけの板前にはならないで」と、社員に徹底しています。調理技術力、接客力、人間力を、90日間の集中トレーニングで鍛えています。
また、「モノを大切にする」ということは、道具は大事に扱えば応えてくれるし雑に扱えば壊れてしまうということです。お店も同じで、「いつもありがとう」と清掃していると、不思議なぐらいにお客さんは途絶えません。ところが、掃除もせずにいい加減にしているとお店はダメになっていくのです。
厳しい船出、ピンチの連続
(仙石)事業を承継されたときの財務状況は、「水面に浮かぶ木の葉のようだった」と、以前拝見したインタビュー記事で表現をされていました。具体的にはどのような状況だったのですか?
中野里 バブル崩壊で投資物件の価値が目減りして、そのまま負債として残ってしまったのです。しかも、売上高の約1.4倍の借り入れをしていました。年間利益は金利返済で全部吹っ飛びました。元手がないから将来のための投資ができません。そこで私は事業を再構築するということで、5ヵ年計画を作成し金融機関8行を回って説得しました。相当に厳しいスタートでした。
社長になる前に、父がこういう話を私にしてきました。
「囲碁には捨て石と要石がある。取られてもかまわないのが捨て石。取られると形勢が一気に逆転してしまうのが要石。玉寿司の捨て石は、財産や名誉だ。だから実家は売却し、俺は社長の座から下りることにした。他方、要石は3つある。のれんの信用、社員、後継者だ。大きな資産を継ぐことは他人でもできる。しかし、負債を背負えるのは身内のお前しかいない。どうだ、要石にならないか」と。
私は、こう言われても嫌な気がしませんでした。「のれんがこれだけピンチならば、俺は今までそのためにやってきたんだし、力を発揮してやろう」と受け入れることにしたのです。
(仙石)引き継がれたとき、苦労はありましたか?
中野里 計画書を提出した銀行の担当者からは本当にひどいことを言われました。でも、彼らは私を試していたのです。そのようなことを言われてしょげかえるようでは、とてもじゃないけれど再建は無理だったのです。
初年度は、計画通りにうまくいきました。ところが、第2の試練がやってきました。JR系商業施設から突然「出ていけ」と言われたのです。
「今後は25歳から35歳の女性に特化した施設にしたいので、寿司のような老人が好むようなお店は要らない」と言われたのです。社長に3回ぐらい直談判に行きました。「若い女性は寿司嫌いというのは間違っている」と訴えました。
2回ほど断られて、3回目にようやく、「新宿だけはあきらめてくれ。でも、他はやってもいいよ」と社長に言われました。本当に助かりました。
ところが、新宿店の撤退話が金融機関に伝わり、「お前の計画はどのぐらい信頼性があるのか?」という問い合わせがきました。急にムードが悪くなり、「90%の確率で法的整理になることを覚悟しておいてくれ」と、恐ろしい宣告をされてしまったのです。
(仙石)本当のピンチですね。
中野里 正直、会社に行きたくなくなり、自宅にいたら私を一番罵っていた担当者から電話がきました。「お前にはひどいことを言っていたが応援もしていたんだ。失った営業利益を補てんする追加の事業計画案を、3日で用意したら俺が推してやる」と言うのです。止まっていた歯車が動き出し、追加の事業計画案は受理されました。
後継者育成する「玉寿司大学」を開校
(仙石)社長の情熱が担当者を動かしたのでしょうね。
中野里 諦めなくてよかったです。私が頑張れたのは、のれんに対する愛着と誇りです。実は2017年の11月に、以前の施設にテナントとして14年振りに戻ることになりました。彼らも感覚が変わり「女性を狙った施設でも、寿司は、やはり必要だ」となったようです。
(仙石)新しいことへの挑戦は?
中野里 寿司職人の後継者不足が深刻です。その理由は、人を育てる明確な仕組みがなく職人の世界が不透明だからです。
そのような危機感から、2017年4月に「玉寿司大学」を開校しました。単なる寿司スクールではありません。人材を育成します。調理技術、接客、人間力の3本柱を3ヵ月で集中的に教えます。カリキュラムを明確にして、誰が先生でも学ぶ人次第で上達できるようにします。
これは先行投資ですが、10年後にきっと花開くし、30年後にはここで教えた江戸前寿司の担い手になってくれると思っています。
(仙石)最後に読者へのメッセージをお願いします。
中野里 私と同じように、事業後継にプレッシャーを感じていたり、不安に駆られたりする方もいると思います。そんなときは、先代が、どういう思いで苦労を乗り越えたのかを知っていることが、とても大切になります。
先代の苦労の上に我々はいるのです。創業から大事にしている思いを、掘って、掘って再認識することができればいいバトンタッチが続くのではないでしょうか。
【プロフィール】
中野里陽平(株式会社玉寿司 代表取締役社長)
1972年東京生まれ。学習院大学法学部政治学科卒業後、事業承継のため、アメリカのコロラド州にあるデンバー大学に留学し、「飲食のMBA」と呼ばれる経営プログラム「HRTM」を修了。1999年に玉寿司に入社し、2005年に4代目代表取締役社長に就任。新時代の寿司店を目指して奮闘中している。
【会社概要】
社名:株式会社玉寿司
商号:築地玉寿司
設立:1924年(大正13年)
事業内容:寿司調理販売(江戸前にぎり寿司)
本社所在地:〒104-0045東京都中央区築地2-11-26 築地MKビル3F Tel:03-3541-0001(代)
代表者:代表取締役社長 中野里陽平
資本金:3,000万円
店舗数:29店舗
従業員数:630人
HP: http://www.tamasushi.co.jp/index.html