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「すべてを力に」二度のメダル獲得で乗り越えた苦悩とその原動力 元マラソンランナー 有森裕子



五輪マラソン女子で2度もメダリストに輝き、「自分で自分を褒めたい」というあまりにも有名な名言を残した有森裕子さん。

現役時代はもちろん、その後のプロランナーとしての活動期間中、多くの人に勇気と感動を与えた。彼女は現在、元スポーツ選手の活躍支援とスポーツを通じた障がい者の社会参加を促す活動などに没頭している。

決して才能に恵まれているわけではなかった彼女は、アスリートとして輝かしい結果を残し、周囲を変えることができたのか。そして、その原動力は何だったのか。また、今後はスポーツを通して社会をどのように変えたいと思っているのかなど、さまざまな話を伺いました。
(聞き手:仙石実・公認会計士、税理士/構成:株式会社フロア)

伸び悩み、迷った学生時代

仙石)マラソンを始めたきっかけ、学生時代のエピソードからお聞かせください。

有森 高校から陸上部に入っていたんですが、まったく芽が出ませんでした。でも走ることしか、自分に自信が持てることがなかったものですから、恩師がつてを作ってくださった日本体育大学に進みました。

一度故障して、気持ちが萎えていたときには、伸びないものよりも、「誰もやってないことはないか」と探して、トライアスロンへの転向を考えた時期もありました。高価な専用自転車も買って、トレーニングをしていましたが、3年生の秋ぐらいに自転車を盗まれてしまったんです。そこで我に返り、「私は走りにきたんだよね、だったら頑張らなきゃ」ということで陸上に戻りました。

私が大学4年生のときソウルオリンピックが開催され、マラソンで金メダルを取ったポルトガルのロザ・モタ選手が、満面の笑顔でゴールする瞬間をテレビで見ました。

それまで「マラソンは苦しい競技だ」と思っていましたが、「あれだけの笑顔で走れるんだ」と、本当に感動しました。そして、マラソンという競技に興味が湧き、「人が感動するような舞台に立ってみたい」と思ったのが、マラソンで五輪を目指したきっかけです。

仙石)リクルート時代はいかがでしたか?

有森 入部当時、小出義雄監督は私をマネジャーにしようと思っていたほど期待されていませんでした。岡山の国体予選で優勝したときは、マネジャーが事前登録していなくて、岡山県代表のチャンスを逃しました。それが悔しくて。

ところが、私には実績がないから文句も言えない。しかし、その悔しさが私を大きく変化させてくれました。初レースだった1990年の大阪国際女子マラソンで、初マラソン日本女子最高記録(当時)を出しました。

銀メダル獲得で始まった苦悩の日々

仙石)そこからオリンピック出場へとつながっていくわけですが、バルセロナでは代表選考が大きな話題を集めました。当時はどのような心境だったのですか?

有森 本当に大変でした。勿論、私だけでなく、相手側の松野明美さんもそうだったと思います。でも、私たちは目の前のことを必死で頑張るしかありませんでした。「キツイ」と思う余裕すらありませんでした。

後に私は彼女にこう伝えました。「私は私で必死にやったし、あなたもあなたで必死にやったよね。それには何も嘘はないよね。」と。

最終的に選考されたときは、正直言ってとても複雑でした。はしゃぐような気持ちはなく、喜んでもいいことなのか周りに確認していました。それでも、「こうなった以上はやるしかない」と思うだけでした。

仙石)結果は銀メダルでしたね。

有森 私も監督も、実は取れると思っていなかったんです。監督からは「頑張ったら8位には入れるよ、運がよかったら5位かな」と言われていました。それでも「やることやってきたから、信じて走れ、転びはしないよ」と送り出していただきました。「これはできた、あれはできた」と、自分ができたことだけを考えて、それを力に走りました。

仙石)帰国してからが大変だったそうですね。

有森 今の人生にいちばん影響を与えたのは、バルセロナ後の4年間でした。休むつもりはまったくなく、「次は金メダルを目指す」というモチベーションはありました。

しかし、自分の気持ちの盛り上がりに対する周りの受け止め方には、違和感を持っていました。「すごいね」と私には言いながら、明らかに「天狗になって特別扱いを求めている」と避けられているような感覚です。

実業団の中にはメダリストがいなかったので、そういう世界の頂点に近いところまで行った人の処遇や接し方が分からなかったんだと思います。

私の気持ちは病んでいき、やがて自分の体にも影響が出ました。動き出しても、ぎごちないし、ぎごちないから痛みが出る、すると軋んでいた体をほぐすこともできない。わかる人がいない、伝える人がいない。

もがいても、もがいても、自分の考えがおかしいのか、周りがおかしいのか、わからない。そんなことしている間に、足が痛くなって走れなくなりました。

仙石)衝撃的なお話ですね。

有森 「日の丸背負ってメダルを取りにいったり、メダルが重くて自殺したり、そんなことしなくてもいい時代に変えないといけない」と思っていました。

しかし、現状は何も変わっておらず、メダルを取ったのに、全然笑顔になれなかったことがショックだったんです。次のオリンピックのことなど、まったく考えられなくなっていました。

仙石)どのように切り替えたんですか?

有森 (足底腱膜炎の)手術をした病院に入院していた人たちが、「また、オリンピックで頑張ってね」と応援してくれたんです。「ここにいる人たちは、ケガを治して普段の生活に戻るために、必死にリハビリをしている。私はケガを治したら、世界に行けるチャンスを持っているんだ」と、いかに自分が贅沢なところで悩んでいるのかを痛感しました。

そこから、またメダルを目指すことになったんですが、それと同時に、バルセロナでメダルを取った後私が悩んでいたことについて、どちらが正しかったのかを問いただしたいという思いもありました。そのためには、「もう一度メダリストになるしかない。勝てない人間では問いただせない」と考えたのです。

思わず出た「自分で自分を褒めたい」に秘めた思い

仙石)アトランタオリンピックでは銅メダルという結果でした。

有森 先ほど話したようなモチベーションでしたので、練習に楽しさもなく気持ちの苦しさを抱えたままのトレーニングでした。そんな気持ちは誰にも明かさなかったし、友人に手紙も書かないし、電話もしませんでした。

また、練習を続けていれば、普通、どこかが故障してしまうものなのですが、不思議と痛みが出なかったんです。「痛みが出ないと言うことは、私は手を抜いているんだ。練習不足だ。」と、自分を追い込んでいました。

でもやりきった感は強く、アトランタの当日は、前日によく眠れなかったこと以外は、気持ちに余裕がありました。

仙石)「自分で自分を褒めたい」という言葉は流行語にもなりましたね。

有森 「メダルの色は銅なんですけど・・・」って言った瞬間に、気持ちが4年前に戻ってしまったんです。

それから考えると、私はパーフェクトなレースができました。「よくここまで戻ってこられた。自分に課したメダルも取れた。もう言うことはないな。よしっ!」という気持ちになったとき、あの言葉が出てきたんです。苦しかった4年間に対する自分の中での納得、受け入れ、そして好転。「認めてもいい」と思えた瞬間でした。

仙石)メダリストになって、その気持ちをぶつけられたんですか?

有森 走りを通しての自分の生き方や求めたい環境を主張することは、果たして間違っていたのかという問いかけを組織にぶつけました。肖像権とか、スポンサーとか、競技以外の生き方で、アスリートが社会とコミットする部分を考えてもらえるようにしたかった。

そうしたら、「特例として認める」と言われました。「いやいや、メダリストはこれからも出てくるから、私だけが認められるものであっては困る」と食い下がりました。

スポーツでみんなを元気にするために

仙石)プロランナーとして活躍後、休養宣言をされましたね。そのきっかけはなんでしたか?

有森 私にはプロランナーとして走ることと別のビジネスで、二つの肩書きがありました。でも、仕事がうまくいかなかったときは、「私はランナーだから」と。一方、走ることがうまくいかないときは、「ビジネスがあるから」と、二つの肩書きを逃げ道に使い始めたんです。

でも、それは良くないことです。もう別に「オリンピックに行きたい」という目標もありません。走ることでは、私はもう十分に役割を果たしました。今はビジネスに絞って活動しています。

仙石)アスリートやメダリストの「その後の活動」に力を入れていますね。

有森 自分が走ってきたことをいろんな角度で活かし、アスリートが生きる道を作ったり、スポーツを通じてみなさんが元気になるように促したりするために作った会社です。

その他にも、「スペシャルオリンピックス日本」理事長をやらせてもらっています。知的障害のある人たちに様々なスポーツトレーニングとその成果の発表の場である競技会を、年間を通じ提供し社会参加を促しています。

仙石)スペシャルオリンピックス以外の活動にも精力的です。

有森 特定非営利活動法人ハート・オブ・ゴールドでは、被災地や紛争地および開発途上国の子ども達、障害者、貧困者層の人々に対して、スポーツ教育を通じた自立支援をしています。

カンボジアの小学校に体育教育を広げ、子供の「豊かな心と健やかな体作り」に貢献することも目指して、カンボジア小学校体育科教育の初の指導書を作り指導者の育成をしています。このような情操教育に関わるようになり、よりいろんな意味で、日常的に子どもたちが生きる力を身につけていくような現場に立ち続けていきたいと、強く思うようになりました。

当たり前のように、障害のある人たちと共存共栄が考えられる現場をつくりたいし、社会に広げられたらなと思います。

仙石)最後にご自身が座右の銘にしていること、そして走る方へのメッセージをお願いします。

有森 私が走ることを通じて、座右の銘としてきたことは、「すべてを力に」です。

マラソンでは、コースのコンディションや天気、戦う相手など、不確定要素を力に変えて、ゴールを目指していかないといけません。必要なのは、すべてのことを味方に変えて何でも力にできることです。

これは日常生活でも同じではないでしょうか。人生はマラソンみたいなものだとか、マラソンは人生みたいなものだとか言います。

私は「すべてを力に」という言葉で頑張っています。マラソンでは、走るだけで、自分自身や環境、季節など、さまざまなものと対話ができます。自分の体と会話をすることで、自分自身を知ることができます。たくさんの人と向き合わなければならない人ほど、オススメしたいスポーツです。


【プロフィール】
有森裕子(元マラソン選手)
1966年、岡山県生まれ。日本体育大学を卒業後、(株)リクルート入社。バルセロナオリンピック、アトランタオリンピックの女子マラソンでそれぞれ銀メダル、銅メダルを獲得。2007年の東京マラソンでプロマラソンランナーを引退した。1998年、NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」設立、代表理事就任。2002年にアスリートのマネジメントやイベントなどのスポーツビジネスを手がける「ライツ」(現 株式会社RIGHTS. )を設立、取締役就任、現在は特別顧問。国際オリンピック委員会(IOC)スポーツと活動的社会委員会委員、スペシャルオリンピックス日本理事長 日本陸上競技連盟理事、日本プロサッカーリーグ理事などの要職を務めている。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞。同12月、カンボジア王国ノロドム・シハモニ国王陛下より、ロイヤル・モニサラポン勲章大十字を受章した。