「いいチャンスだ。しかし人の3倍働け」 あずきバー・井村屋会長を変えた『上司の言葉』
文化放送・The News Masters TOKYOのマスターズインタビュー。
今回のインタビューは、「あずきバー」でお馴染み、井村屋グループ会長の浅田剛夫さん。
浅田さんは1942年、三重県のお生まれ。中央大学卒業後、大阪の老舗食品会社、イカリソースに入社するが、1970年、井村屋製菓に転職。
2003年に井村屋製菓社長、2013年から井村屋グループの会長を務めている。
その浅田さんにプロゴルファーで、The News Masters TOKYOのパーソナリティ・タケ小山が話を聞いた。
転職の決め手は"挑戦"
大卒でイカリソースに入社し結婚もした若かりし頃の浅田さん。
そこからまだ街の小さな和菓子屋さんだった井村屋に転職した理由とは何だったのだろうか。
タケ:
転職したのは何年目ですか?
浅田:
5年目ですね。1970年の大阪万博と深いつながりがあって、イヤでイカリソースを辞めたわけじゃないんです。
浅田さんの中学からの親友に、井村屋の創業者の長男がいた。彼から、「新しい挑戦として、万博で高級アイスを売ることになったが、営業をやるメンバーがいない」ということで井村屋に誘われた。
当時、万博というイベントは、世界から色んなものがやってくる魅惑の存在。さらに、井村屋が三重県の会社で、自分が三重出身、誘ってきたのが幼馴染というのも転職の後押しになった。
今でこそ、転職は当たり前になりつつあるが、当時はまだそんな風土は無かった。しかし、イカリソースの上司の反応はとても意外なものだった。
浅田:
"いいチャンスだ。しかし人の3倍働け"と言われました。
友人の誘い=縁故入社で、普通の人より優遇されて入社する身の浅田さん。だから、3倍働いて他の人と同じということなのだ。
もちろん、現在の井村屋から転職して出ていく人もいるが、「3倍働け」とは浅田さんは言わない。
浅田:
ただ、"常にもう一歩"の気持ちを忘れずに精進しろとは言っています。
要は、どんな職場でも気に入られる人にならないとダメなのだ。「男は度胸、女は愛嬌」と言われるが浅田さんに言わせれば「男も女も愛嬌」なのだ。
組織を変えるリーダーに必要なことは?
こうして大阪万博をきっかけに井村屋に転職した浅田さん。
レストラン事業に15年携わった後、1987年に東京支店の支店長に就任する。日本経済の中心地、東京支社の支店長なのだから、さぞかし花形のポジションなのだろうと思いきや、実情はそうではなかった。
タケ:
東京支店は花形だったんですか?
浅田:
それが違うんです。期待値の割にダメだったんです。行ってみたら、負け犬根性で暗い顔して、下を向いているし。
浅田さんの目的は何だったのか?辞令とともに営業本部長から受け取ったのは「改革」の二文字。
「浅田で変わらなかったら東京支店は閉めるとまで言われました」と笑って振り返る浅田さんだったが、そのプレッシャーはとてつもないものだったことは、想像に難くない。
タケ:
何から手を付けましたか?
浅田:
最初にオフィスを千住から引っ越すと宣言しました。
世界有数の経済都市・東京だからこそ、目指すべきはナンバーワン支店。
東京と言えば中央区・千代田区・港区だということで、1年半で千代田区の外神田に引っ越しを敢行した。
引っ越す理由は他にもあった。千住の旧東京支店は倉庫も兼ねていたが、浅田さんが東京支店長に就任した当時、小売業界には物流革命が起こっていた。
これまでは企業単体で倉庫を抱え、卸を行っていたが、横並びの企業と手を組み、共同で配送を行うことで、物流の効率化を図る流れが生まれていた。そうしたことで、倉庫と広大な土地を持つ必要性も次第に薄れていった。
精神的な部分、実利的な部分を要因として、引っ越した東京支店チーム。
これが功を奏し、環境が変わったことで、雰囲気も一変する。負け犬根性がなくなり、明るくなったという。そこで、支店長の浅田さんはさらに仕掛ける。
東京は日本の小売業の中心地であり、本社がたくさん集まる場所。
そこと密接な関係を作らないといけないと考え、当時のダイエーやイオン、セブンーイレブンなどに集約的にフォローする部隊を作った。
そこが動くと、大きな売上も生まれ始めた。
タケ:
社員を盛り上げるためのアドバイスをするとしたら、何でしょうか?
浅田:
やっぱり先頭をきって動いてみせること。あとは明るくいること。1人では絶対に改革は出来ません。
賛同してくれる仲間を作っていくのが必要ですし、いつまでにこういう改革をして、こういう部門にしようと明確に示すことが大事です。