平凡な人生だったんです。「紛争地の看護師」はどのように生まれたか
1971年にフランスで設立された「国境なき医師団」。独立・中立・公平な立場で、世界中で医療・人道援助を無償で行っている団体で、1999年にはノーベル平和賞を受賞した。
2017年には、医師、看護師など約4万5000人のスタッフが世界70の国・地域で活動し、日本からは117人が派遣された。
看護師の白川優子さんもそのひとり。8年間で合計17回、世界の紛争地などで活動をしている白川優子さんに、文化放送「The News Masters TOKYO」で話を聞いた。
じゃあ誰が行くのか、誰が注目するのか。
――国境なき医師団の活動や目的は何ですか?
医療が届いていない地域、医療へのアクセスが絶たれている地域って、まだまだあるんです。
なぜかと言うと、私が良く入る活動地域の紛争地は代表的な例ですし、医師や病院が圧倒的に少ない貧困地域だったり、感染症が蔓延してしまったような地域だったり、病院やお医者さんはいるけど何らかの迫害や差別があって医療を受けられない人というのがたくさんいるんです。
そういう人たちに目を向けて、中立の立場で医療を届けています。
――私が初めて白川さんのお話を伺ったのは、2015年に白川さんがイエメンで活動しているときでした。
あの時は、自分たちのチームの仲間が支援していた病院がたった一発の空爆で破壊されてしまったんです。その中継をさせていただきました。
――大変な場所がどうしても多いですか?
私は紛争地が多いので、過酷ですかね。本当は医療ファーストなんですが、紛争地だと、どうしても医療ファーストにならない、安全管理・セキュリティーファーストになってしまうところがあって。自分たちの生活を安全に確保することだけでも苦労したり、医療を届けることがすごく難しい場面がたくさんあります。
――白川さんの役割はどんなことが多いのですか?
日本で看護師をしていたイメージと違うのは、実際に注射をするとか包帯を巻くといった看護行為ではなく、現地の人を指導したり教育したりすることがメインになっています。看護師だけではなくドクターもそうです。
私ひとりの看護師が病院や医療機関を24時間回すというのは不可能ですから、シリアならシリア、イエメンならイエメンの現地の看護師さんたちを雇うんです。その中でチームリーダとしての活動になります。
海外から看護師が行かなくても自分たちで独立してできるようなチーム作りをするのが究極の目標なんです。
――「日本人である白川さんがいく必要はない」「政府が行くなと行っている場所に行くのは自己責任だ」と言った声はありますか?
そうですね。「日本にだって助けなければいけない命はある」とか、「自己責任論」はよく言われることなんですが、1人の看護師の価値が高まるような場所なんですよね。
日本だと100万人以上いる看護師の中で私一人が抜けても医療体制って崩壊するようなことは絶対にありえないけれど、私一人の看護師がいるかいないかで大きく変わってしまうような場所に入ることが多いです。
自己責任論はもちろんそうですけど、じゃあ誰が行くのか、誰が注目するのか、誰も注目しないような所で亡くなっている人がいる。葛藤しながら、誹謗中傷もありますけど、私たちが証言しないと世に知られないままになってしまうような現場が多いですから、自分たちが目撃したことを世に訴える証言活動ということも、医療を提供することと同時に大切にしています。
――著書『紛争地の看護師』でも、現場の生々しい様子が描かれていますが、特にどんな人に読んでほしいと思って書いたんでしょうか?
実は大人の方を対象にというイメージで書いたんです。ところが、全国の高校生から手紙とかSNSのダイレクトメッセージで「読みました」って感想が届くんですね。すごく嬉しいし、驚きでしたね。
「私も世界に目を向けたいと思います」とか、「こういう世界があるなんて知りませんでした。私も国境なき医師団で活動してみたいと思います。今から英語を頑張ります」とか。
――それは素敵ですね。白川さんも子供の時にテレビのドキュメンタリーで国境なき医師団を知って、目指されたんですよね?
小学校の時に国境なき医師団を知って、働きたいと思いました。ドキュメンタリー番組だったんじゃないか、という記憶だけなんですけど、番組の最後にテロップで「協力:国境なき医師団」と出ていたのが印象的だったんですね。それを見て、国境なき医師団という団体が存在していると知ったというのが、きっかけですね。
――それを見て、勉強して頑張って、スーパーウーマンとして…、という人生だったんですか?
恥ずかしいんですけど、全然違うんですよ(笑) 私も割とそういうプランを立てられるような人間ではなくって、スーパーウーマンでもなんでもなく平凡な人生を送ってきたんです。
国境なき医師団は尊敬や憧れという想いは持ち続けていたんですが、看護師は国境なき医師団とは全然違う切り口で選んだ職業なんです。心の底からやりたい職業だったんですが、看護師になり、3年ぐらい経った時に国境なき医師団がノーベル平和賞を取ったんです。
私は26歳になっていたんですが、具体的に一歩踏み出そうと思ったのはそのあたりですね。「憧れや尊敬」から「私もやれるんじゃないか」と思ったきっかけになりました。
――努力もかなりされたんですよね?
割と情熱でできると若かったので思っていたんですが、現実の壁というのは出てきました。その一つが英語だったんです。帰国子女でもないし、本当にゼロに近い英語力だったんですね。
まずは日常会話をしなくちゃいけないと英会話学校に通ったりしたんですが、医療活動をしなくちゃいけない、人の命を預かるので、日常会話レベルでは到底活動ができないと思って、そこが壁でした。
私は国境なき医師団に入りたいが、英語ができないばっかりに夢が夢のままで終わってしまうという想いで何年間か過ごして、すごく苦しかったんです。
自分の歳が30手前になって、「国境なき医師団にやっぱり入りたいんだ、その想いは変わらないんだ」と認識して、「もう留学しかない」と決心したんです。勇気はいりましたよ。
グローバルで通用するには…
――白川さんから見て、グローバルに通用する人材はどんな人ですか?
柔軟性とか適用力は大事だと思います。日本で自分たちの当たり前だと思っているものが全然当たり前じゃなかったり、常識だと思っていたものが常識で通用しなかったりするので、それぞれの世界中から集まった人たちの文化とか尊重して理解してお互いうまくやっていく柔軟性とか適用力は大事じゃないかなと思います。
――日本人はコミュニケーション力や適用力が足りないと思いますか?
私自身がすごくコミュニケーション力が苦手だった部分があるんですね。オーストラリアに7年間いたんですが、そこで培われたような気がします。
オーストラリアは多文化多人種なので、世界中から集まった人たちの文化を尊重して理解して。色々な人に出会ったんですが、それはすごく大きかったですね。勉強になりました。
――例えば、どんなことを学んだんですか?
オーストラリアの病院に務めたんですが、すごく驚いたのが、通訳部という部署があるんです。カルテの一番初めに、「どの言語をしゃべりますか?」「どの宗教ですか?」って聞くんです。
「英語は第二言語で苦手なので、母国語であるこの通訳をつけますね」とか、「この宗教なんですね、では尊重しますね」とか。たとえば手術では、自分の身に着けているものは外さないといけないんですが、イスラムの方に対しては「スカーフを外したくない?ではそれは尊重します」とか。食べられないものが宗教的にあったりします。
差別もないし、見下すこともない。私も日本人なので外からやってきた一人ですけど、オーストラリアはすごく尊重してくれました。
――白川さんが今後やりたいことや目標はありますか?
『紛争地の看護師』を書いたきっかけでもあるんですが、現地の医療提供だけではなくて、それを伝えること、自分たちのような人を育てたりしたいなと思っています。