すかいらーく元社長が退任後、75歳でカフェを起業したワケ
文化放送・The News Masters TOKYO『マスターズインタビュー』。
今回のインタビューのお相手は、高倉町珈琲会長・横川竟さん。
ファミリーレストランでお馴染み「すかいらーくグループ」創業者の一人で、すかいらーく社長を退任された後、75歳で高倉町珈琲を創業。
すかいらーく時代、セントラルキッチンや雨の日の傘袋など飲食業界のみならず、日本のライフスタイルにまで影響を与えた人物は、今何を思い新たなスタートを切ったのか。
プロゴルファーで「The News Masters TOKYO」のパーソナリティ・タケ小山が聞いた。
日本初のファミレス誕生秘話
横川会長は、中学卒業後に築地の食品問屋に就職。
築地で4年働いて得た教えが、その後の経営人生全てを支えた。
タケ:
その教えの中で最も骨になっている部分は?
横川:
お客さんが欲しいものを売れ。だから、君が売りたい物、店にあるものは売らなくていい。なかったら仕入れて来い。
簡単なようで難しい。タケも思わず「う~ん」と唸る。
60年以上経過した今でもこれは変わらないポリシーであり、何をやってもお客さんの意見をどれだけ聞いて、経営に入れて行けるかということが当時から変わらないスタイルなのだ。
レストランでは料理が美味しくなくてはならないが、それ以外の要素も必要で、例えば駐車場があるか、店内が明るく綺麗か、接客がいいか、家庭で食べられないものがそろっているか…お客さんが困っていることをどう解決するかが価値を作るのだ。
トイレに綺麗な壁紙を使って評判がよくなったこともある。これらは全て売り物、レストランは料理だけ良ければいいと思っているうちはダメ。
もともとは、兄弟でスーパーマーケットを開店した横川会長。
経営はうまくいかず、資金をなんとか捻出し背水の陣で次に挑んだのが「すかいらーく」だった。
当時は、高度経済成長期。「すかいらーく」に家族で訪れたある小学生が「夏休みにすかいらーくでお子様ランチを食べて、生まれて初めてこんなに美味しいものを食べた。幸せだった」という作文をクラスで発表した。
これで評判が広がり、子供達はこぞって親に「すかいらーく」に行くことをお願いし、親子でお客さんが来るトレンドが生まれた。
もともとは憩いの場、コミュニケーションの場として作られた「すかいらーく」。
高度経済成長期は、各家庭のお父さんが仕事に精を出し、ほとんど毎日遅くなるまで帰ってこない時代。
働きづくめで、どこにも連れて行ってあげられないが、「すかいらーくなら行ける」ということで、早く仕事を切り上げて、家族で行くという社会現象も起きた。
これがファミレスの由来であり、原点。横川会長も「ファミリー層のマーケットや外食産業の始まりになったのではないか?」と語っている。
これからの時代はカフェがくる!
こうして「すかいらーく」がファミレス業界のリーディングカンパニーへと昇って行ったのだが、その後、退任して立ち上げたのが、この「高倉町珈琲」。
横川会長は、なんとその時75歳。
タケ:
なぜ、75歳で起業したのでしょうか?
横川:
75歳であるかどうかは関係ないです。カフェにしたのは、これからこういうところに人が集まるだろうと思ったから。
カフェって気楽に行ける名前なんです。レストランは食べなきゃいけない、喫茶店はお茶を飲まないといけない。
カフェはなんだかよくわからないから何があってもいい。
今の外食業界では、不振店をカフェにシフトしている店がたくさんありそれが成功している。
売り物をコレと決めるのではないことが大切なのである。
タケ:
店名には高倉町"珈琲"店と書いてあります。カフェとは書いていないですよね?いいんですか?
横川:
本当はいけません。これから変えます。でも、名前は何でもいいんです。
店の名前は、時代とともに変えてもいい。しかし、ブランドとして「高倉」がしっかりしてればいい。
そのうち「高倉」といえばお客に伝わるようになる。品質がブランドを作るのであって、ブランドが商品を作ってるわけではない。
「高倉町珈琲」を立ち上げた75歳、引退という選択肢もあったはずだが、仕事の方が面白いと考えた横川会長。
引退して行う趣味は自己満足でしかなく、周りから評価を受けない。そう考えて現在の道を選択した。
そして仕事を続けているのには、やり残してきたことがあるのだという。
「すかいらーく」を作った当初は面白かったが、徐々にコストカットの手が及び、楽しさが減っていたと振り返る。
利益を追求するとコストを削る。コストを削ると楽しさは失う。
横川:
コストを削って良くなった店はありません。
ジョナサンは、コストをふんだんに費やしており、楽しかったのだが、コストカットの会社と合併してしまった。
そこが悔しいため、今もう一度リングに上がったのだ。
何もかも限界までかけて、時間もかけてお客さんに理解してもらい、初期は赤字だったものの、徐々に業績も良くなってきた。