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“ブラック企業の経験”が原点。森下仁丹社長の経営哲学

医薬品・健康食品・サプリメントの製造販売など中心に事業を展開する株式会社森下仁丹の駒村純一社長。

スポーツに打ち込んだ学生時代からイタリアでの商社マン時代、そして森下仁丹に入社し社長に就任するまでの道のりを振り返るとともに、リーダーとしての哲学やこれからのビジョンについてタケ小山が迫った。

スポーツに打ち込んだ少年時代

駒村社長は1950年、東京・神田生まれ。育った街の影響も大きく、自然と巨人へ憧れを抱く野球少年になった。

「小学校のとき得意だったものと言えば野球。野球をやっていたときのポジションはキャッチャー。みんなやりたがらないからやってみたけど、ひとりだけ反対方向を向いてあれこれ指示を出すのがおもしろかった」

その後、中学では柔道に勤しみ、高校ではサッカー部に入部。サッカー部では野球少年時代にキャッチャーをやっていたということもあり、キーパーを志望。高3のときには県選抜にまで選ばれるが、そのときの出会いが駒村社長の進路に影響を与える。

「県選抜に選ばれたとき、たまたま一緒にプレーしたのが当時高1の奥寺康彦選手(元日本代表、ブンデスリーガで活躍)。シュートは、受けたときに手が痺れておかしくなるぐらい強力。選抜で選ばれたもうひとりのキーパーもすごくうまくて、ダメだ、サッカーの世界では敵わないと思った」

工学部から商社マンへ

サッカーを続けることを諦めた駒村社長は“これから先は技術を身につけなければ”と考え慶應義塾大学の工学部に進学する。

「工学部では応用化学を専攻した。研究はやっていたものの、もともと体を動かすのが好きだったので、あまり性に合わなかった。就職活動の時期には研究職の内定をもらったが営業をやりたかった。仲の良い友達のすすめで商社を受けてみたら“すぐに来い”と。商社の営業も御用聞きではすまされず、化学の知識を持つ営業が求められる時代になっていた」

1973年に三菱商事へ入社し、精密化学品を取り扱う部署に配属。ここから駒村社長のビジネスマンとしてのキャリアがスタートする。

「入ってみてどうでした?」というタケの質問には「とにかくすごかった」と即答。

「“世界を駆ける総合商社”と掲げていただけあって、内部は軍隊みたいに厳しかった。上司がおっかないのも、説教中に怒号と一緒に灰皿が飛んでくるのも当たり前。その時代はブラック企業なんて言葉もなく、それが普通だった。覚えている理不尽な出来事は、先輩から勝手に請求書付きでゴルフセットが届いたこと。“商社マンだったら、ゴルフくらいやれ”ということだったが、しようがないので自己流でゴルフの練習をしてすぐに先輩より上手くなったけど」

オイルショックなど不況の波も経験するが、精密化学品の部署は技術の蓄積があったため順調に業績を伸ばす。

そんななか、駒村社長は“商社マンなら一度は海外で働きたい”と考えるようになる。

「最初に海外に行ったのは30歳のとき。増員がかけられていたドイツへ赴任したが、3ヶ月たったぐらいに会社の都合でイタリアのミラノに行かされた。ドイツのほうが良かったと思ったが、住めば都。すぐにイタリアも好きになった。イタリアでは革製品の製造機など精密工業の分野に携わっていた」

退職、森下仁丹へ

6年イタリアに駐在したのち、一度に日本に帰国。その後、日本で9年過ごしたあと、2度目のイタリア赴任の機会が訪れる。最初の赴任のときにイタリアで買い取った会社の経営を任されたのである。

フッ素を扱った会社に7年間従事し、帰任となった駒村社長だが胸中にはある想いを抱いていた。

「日本に戻ってからの仕事や一緒に働く人を考えたらつまらないと感じて、帰国する前に退職を申し出た。帰ってから今後を考えたところで、居心地が良くなって何も考えられなくなる。先に退路を断ったほうが上手くいくとそれまでの経験から知っていた」

その後、紆余曲折あり森下仁丹に執行役員として入社する。

「前にいた会社とも縁があり入社したものの、そのときの森下仁丹の経営状況は良くなかった。不安はあったが、森下仁丹が独自に持っていた“シームレスカプセル”という技術は経営回復の基軸となると思った。地道にやればできる。会社をいい方向にもっていくため、最初にしたのが社員の“意識改革”。みんな下を向いていた。だから、どんな意見でも発言させて、新しいものを生み出す機運を作る。商社マン時代の厳しいスタイルを思い出しながら、とにかくやる気のある人をどんどん上にあげていくと、中途半端な人はけっこうやめていった」

駒村社長が変えたのは意識だけではない。このインタビュー中、タケがオフィスに仕切りの壁がないことに気づく。

「フリーアドレス・ワンプラットフォームスタイルで情報共有し、プラスのアイディア出し合う。部署ごとに小部屋で区切られていたが。それが行き詰まりの原因のひとつとなっていた。そういう文化を変えるために30代の若い人材を意図的に中途採用した。違うジャンルで働いていた人でもいい。一緒に盛り上げよう!という意識が大事だった」

第四新卒採用と若きビジネスマンへ

“改革”が功を奏し、森下仁丹の経営を見事回復させた駒村社長が次に打ち出したのが“第四新卒採用”。

年齢・性別を関係なく、挑戦し続ける人材を募集するという採用方法の狙いをこう語る。

「森下仁丹は50歳前後の社員が少ない。このあたりでやる気がある人、キャリアやスキルも関係なく、一からでも一緒になって、やっていける・作っていける人がほしいと考えたのがきっかけ。収録時点で、応募してきた方の最高齢は78歳。一番若いのは27歳。1ヶ月くらいで2000人の応募があった。“新卒”という言葉を付けたのは新卒の気持ちで取り組んでほしいから。本当にたくさんの人が活躍してくれている。世間では『優秀な人材がいない』などと嘆く声も聞くが、そんなことはない。実力があるのに恵まれていないアンラッキーな人もいる」

年齢・性別・キャリアがバラバラのため、バランスのとれた競争意識が芽生えるという。

最後に、若きビジネスマンへ向けて駒村社長からメッセージをもらった。

「もし自分の環境が合わないのならなら我慢することはない。しかし、自分がいる企業が社会の風潮からみてどの位置にあるのか見極める必要がある。例えば、人気企業ランキングはそのとき旬の企業だから、自分が活躍するころには終わっている可能性がある。5年後10年後に伸びてくるだろう企業を先読みすることが大切。森下仁丹も地道に今の商売を伸ばしていくが、進んだ分野もやっていきたい。シームレスカプセルには、まだまだ『こんな使い方があるのか?!』という可能性がある。どこかでブーストをかけてジャンプアップしないといけない」

タケが今後のビジョンについて聞くと“これから森下仁丹も今までのイメージにはない分野に挑戦していく”と力強く語る駒村社長。これからも、いろいろな人材を率いて、これからも大きく躍進していくのだろう。

インタビューを音声で聞くには podcastで。
The News Masters TOKYO Podcast
https://itunes.apple.com/jp/podcast/the-news-masters-tokyo-podcast/id1227381972


文化放送「The News Masters TOKYO」http://www.joqr.co.jp/nmt/ (月~金 AM7:00~9:00生放送)
こちらから聴けます!→http://radiko.jp/#QRR
パーソナリティ:タケ小山 アシスタント:小尾渚沙(文化放送アナウンサー)
「マスターズインタビュー」コーナー(月~金 8:40頃~)

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