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「上司がダメなら、人生がダメに」ビジネスを知る校長先生の話

奈良市立一条高等学校の校長を務める藤原和博さん。
リクルートで活躍していた藤原さんが、東京都では初の事例となる公立中学校校長へ転身したのは2003年。
見事なマネジメント力で義務教育の場でも様々な成果を出した藤原さんが次に選択したのが、公立高校という新たな場での挑戦だった。

私企業で培ったビジネスパーソンとしての力をどのように教育の場で発揮しているのか?
場所や環境が変わっても快進撃を続ける藤原さんの“働きかた”哲学についてタケ小山が迫る。

始まりは、リクルート

藤原さんは1955年生まれ。東京大学を卒業後、同じ大学の先輩である江副浩正氏が立ち上げた会社である株式会社リクルートに入社した。

「営業とプレゼンをずっとやっていたので、基本的にこの二つについては人に負けない自信がある。何を売れと言われても売れる」

東京営業統括部長、新規事業担当部長などを務めた藤原さんの力強い言葉にタケはうなずいた。

「リクルートというのは、一体どういう会社なのか?」とタケが尋ねると、リクルートのスローガンである「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉を引用して、「チャンスは自分でつくり出すもので、待ちの姿勢ではダメだという原則が貫かれている」と答えた。

「風通しの良い風土でしたね」と藤原さんは語る。上司と部下、男性と女性、外国人と日本人、大卒と高卒…、そういう出自や学歴によって差をつけないし、壁を感じさせない。肩書ではなく「さん」付けで相手を呼び合い、常にフラットな関係で仕事をしていたそうだ。

「そういうカルチャーは今も続いていると思う」と語った後、「今のリクルートを受けても、僕は受からないんじゃないかな」と笑った。そこにすかさずタケは、リクルートに就職したい学生さんたちに代わってこんな質問をした。

「リクルートの入社面接に受かるにはどんな作戦を立てればいいですか?」

藤原さんが教えてくれたのは「ポケモンのレアカードみたいな存在になること。つまり、ちょっと変わっていて希少性がある。メッセージがある、打ち出すものがあると感じさせること」というものだった。

お決まりのリクルートスーツを着て、面接塾で習ったことを言われてもよい反応はできないし、どこにも引っかからない。

「引っかかるところを、作ってください」

企業から教育の場へ

リクルートから公立中学(杉並区立和田中学校)の校長への“転職”を決めたとき、藤原さんは47歳。当時はリクルートで年棒制度のフェロー職に就いていた。

「リクルートで経験したことや身につけたビジネスの技術を、それが通用しないかもしれない世界で勝負してみたくなったんです」

当時、東京都では義務教育の場に民間人校長というのは前例がなかった。「第一号が好きなんです」と、藤原さん。

「第一号は、いろんな人が助けようという気持ちになってくれる。他人のパワーが集まる。第二号と第一号では全然違う」

実際、藤原さんが校長として赴任した和田中学校では、ノーベル賞受賞直後の小柴昌俊氏や詩人の谷川俊太郎氏なども杉並区に住んでいたこともあって授業に来てくれた。

「フェロー時代に教育改革にも関わっていて、審議会で意見を述べたこともあったんだけど、結局変わらなかった。やはり現場に立つことが大事なんだと思ったんです」

現場主義はリクルートで鍛えられたものだ。

「現場で何か一つ変えてみせる。それをマスコミに取り上げてもらって広めてもらえれば変わるんじゃないか」

この作戦は功を奏して、藤原さんが始めた「地域本部」や「よのなか科」は今では一万校以上に波及して実施されている。地域社会のパワーを学校に入れて、学校で教えられる知識と実際の世の中との架け橋になる授業だ。

セカンドキャリアとなる公立中学の校長という仕事の場でも目覚ましい成果を上げていった藤原さんだが、ここでタケはどうしても聞いてみたかったことを投げかけてみた。

「企業と教育、全く違う環境で大変だったこともあったんじゃないですか?」

最初に感じたのは、教員のカルチャーが私企業とは全く違うということだったと語る藤原さん。

「企業の社員のマネジメントは、人事権と予算権で動かすことができる。えらくなりたいなら頑張れ、と。一方、教員はえらくなりたいと思っていないから、同じようにはいかない。どんな点でリスペクトされるかが重要だった」

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藤原さんは校長室をオープンにして生徒たちの出入りを自由にしたそうだ。

「生徒たちを呼び込むために、漫画を300冊くらい用意して、さらに、壊れたコンピューターを分解させたりもした」

校長室に行けば面白いことが起こる、と生徒の心を味方につけた藤原さんは次第に教師の心もつかんでいった。

和田中学校は、その後成績もぐんぐん伸ばし5年間で英語は区内のトップになり英検の成績では全国一万校の中で40位以内に入るなど大きな結果を出すことになった。
それに伴い人気もうなぎのぼりで「入学したい」という親子が後を絶たず、ついには周辺の不動産相場をも動かすほどの経済波及効果を生むこととなった。

ピンチはチャンス

順風満帆にキャリアを積み上げてきたように見える藤原さんだが、実は30代で、あるピンチを迎えていた。

「メニエール病を発症したんです。ただのめまいと違って、目の前の画像がくるっと回転するほどの気持ち悪さ。毎日注射を打たれて、後遺症が5年くらいは残りました」

この病がきっかけで藤原さんは自らの働きかたを見直すことになった。


「それまでは仕事は当然ながら、飲み会も盛り上げるし接待もやり、部下の気持ちも鼓舞するとすべてに全力投球していたが、それを続けることが無理になった」

これまで歩んできた道から「“横に”どいて、モードを換えることにしたんです」と語った。

「課長として10人のマネジメントをしてきた人が次長になって部下が30人になった。そこで行き詰る人がいる。何か工夫すれば上に上がれるというものではない。そんなときはいったん階段を下りてたとえば営業から専門職へ、工場へなどとモードを変更した方がいい。あるいは別の会社に転職するのも一つの方法です」

「そういう状況って、まさにピンチですよね」とタケ。それに対して藤原さんは「はい。年収は転職すると半分になりますね」と平然と答えた。驚くタケに「でも、そのリスクを抱えたままで続けていくと、先々には3倍のリスクが待っているかもしれませんよ」と話した。

藤原さんが教えてくれたのがすべてのサラリーマンが潜在的に抱えているリスクのこと。「サラリーマンの唯一絶対のリスクは上司です」と、きっぱり。

「上司があかんかったら、ビジネス人生の半分以上がダメになる。サラリーマンはリスクがなくて安定していると思っている人は気をつけた方がいい。自分にとってダメな上司に、自分を変えてまで合わせていくのか?」

藤原さん自身がサラリーマンを辞めたのは40歳の時。「自分の人生のイニシアティブをとって主人公として生きるには、サラリーマンのままでは厳しいこともある」。

2020年の東京オリンピックまでは、転職市場も比較的良好だという。「チャンスはこの2、3年でしょうね」と、藤原さん。

「まさに、ピンチはチャンス。時には年収が半分になる覚悟でも、新しいチャレンジをやってみた方がいい」

<後編に続く>「10年後に仕事はある?『100万人に1人の存在』になれる方程式」


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パーソナリティ:タケ小山 アシスタント:小尾渚沙(文化放送アナウンサー)
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