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第23回 決断の大胆さと堅実な展開の両輪で拡大を続ける、株式会社ピューターズ 松下義晴社長

30年前の恵比寿から

筆者が東京に出てきた平成元年。まずは住まい探しだが、深く考えず恵比寿を選ぼうとしていた。代官山にも広尾にも近いのにJRの駅舎はぼろぼろで地味な雰囲気(当時)がよかったのだろう。

物件探しに歩き疲れたぼくは、「松栄寿司」なる一軒の寿司店に入った微かな記憶が残っている。結局恵比寿に希望の間取りがなく四ツ谷で東京でのスタートを切ったが、その後「松栄寿司」は「松栄」と名を変え店舗も大幅にリニューアル。東京の寿司業界に衝撃を与えていることを知った。

当時を振り返り、株式会社ピューターズ社長 松下義晴氏は語る。

「寿司店の長男に生まれたぼくは、高校生のころから自分は店を継ぐのだろうと考えていました。だから今は遊ばなきゃと(笑)。弟は早々に他店での修業に入ったので、ぼくも少し他で勉強の後、父の下で恵比寿で働き始めました。

30歳になったとき、父があっさりとぼくたちにすべてを譲ると言い出し突然オーナーになったんです。

では店を改装しよう、すでに弟はプランを進めていたんですが、それがどうも気に入らず、恵比寿にある高取先生に相談しました」

新しい「松栄」の出発

松栄 恵比寿本店

高取邦和氏といえば、無印良品の店舗デザインで名を馳せたスーパーポテトの元共同代表。その後もバーラジオや表参道のスパイラルビル等、今や建築デザイン分野の重鎮である。

「そりゃもう、費用は弟のプランの3倍でしたが、その提案があまりにもすばらしくて、これは絶対にうまくいくと不思議な確信がありました。こうして新たに生まれた『松栄』は、寿司店として斬新すぎるデザインだけではなく、当時は珍しい一貫ずつのおまかせコースやワインを提供するなどのメニュー面でも好評。情報が乏しい時代にマスコミにも多く取り上げられ、ものすごいことになりました。あまりにも忙しすぎて、父が早々にぼくたちに店を譲った真意は、自分はもう働きたくない、みたいなところにあったのかなと実感しましたよ」

革新的な寿司店の次の展開は

松虎

筆者は何度も松下社長に突っ込んでみたが、成功の確信には本当に根拠はないようだった。しかし、反対も多かったのは想像に難くないが「決めるときは決める」、3倍も高い予算でも「とことん信じて任せる」ことができる度胸と勘の鋭さは、やはり只者ではないのだ。そしてその後の展開もまた興味深い。

「ありがたいことに『松栄』は繁盛し満席でお断りすることも増えました。それをなんとかしたいと考えたのがウェイティングバー。席が空くまで少しバーで待っていただく、バーもやってますので寿司の後にどうぞ、みたいな展開です。バーを弟に任せ、デザインは高取先生にやっていただいたのですが、それがまた斬新すぎるぐらいの店で、想像以上にバー単独で流行り、ついには同じ恵比寿の反対側に『松虎』として二軒目まで出すことができたんです」

オーセンティクすぎて東京のバーに物足りなさを感じていた筆者は、バー「松下」には本当によく通った。店内は文字通り真っ暗で何も見えない。あかりといえばカウンターの上の小さなライトと、焼き台から上がる炎のみ。その煌めきの艶っぽかったこと。さらに、洋酒しかなかった当時の東京のバーにはありえない、日本酒や焼酎も普通に置かれていた。真っ暗の中で和酒と炙りのつまみ。最先端のデザイン空間で味わう、八代亜紀の「舟唄」の世界。

その後も松下社長の快進撃は続く。

「ぼくは寿司屋なんだけど蕎麦と焼肉が好きです。でも仕事が終わった遅い時間帯に開いている蕎麦店ってないんですよね。であれば作ろう。どうせやるなら更科系蕎麦の激戦区、そして当時は深夜族の多かった麻布十番に出店を決めました。蕎麦屋で酒を飲むのは江戸の粋。とはいえ蕎麦屋のつまみでは少し物足りない。そこでそのあたりも豊富に揃えたんです」

寿司店がオープンした焼肉

焼肉チャンピオン 恵比寿本店

深夜のラーメンには罪悪感があるが蕎麦なら大丈夫、みたいな健康志向も相まって、老舗とは違う新しい形の蕎麦屋酒の悦楽。筆者も重宝させていただいた。

そして松下社長は次に、当初から志していた焼肉店の開業に踏み込む。

「焼肉店をやろうと思った当時、今は普通になってしまった肉の希少部位は、店に通い詰めた常連だけがありつける特別な食材で、ふらっと行って食べられるものではありませんでした。

焼肉の超有名店に研究に行き、常連に出している希少部位を出してくださいとお願いしたら、初めての客にそんなものが出せるかとこっぴどい反応でした。あまりに悔しかったので発奮、自分の店では初めからメニューに希少部位を並べてやろうと決めました。それが一頭買いというキャッチフレーズです。でも、やってみてお客様には本当に喜んでいただけたんですが、結局一頭で買っても出る部位は限定されていて余った部分は肉屋さんに買い取ってもらうことになり、決して儲かりませんでしたね。有名な焼肉店が常連だけに希少部位を高く売ることで儲けていたんだという商売の構造がよく分かりました」

恵比寿から都内、そして国内全土へ

松玄 麻布十番

寿司、バー、蕎麦と同様に、「焼肉チャンピオン」の恵比寿でのオープンもセンセーショナルだった。かなりのブラックボックス状態である焼肉業界も見える化が始まったと感心したものだ。まったく仕入れルートが異なる寿司店だからこそできた偉業なのかもしれない。

蕎麦の「松玄」そして「焼肉チャンピオン」成功の追い風もあり、松下社長やご兄弟は海外へも動いた。だがリーマンショックの波をもろに受け、順調に店舗展開をしていたピューターズにも経営を振り返る時期も訪れていたようだ。そこで、今まで恵比寿にしか出していなかった店舗を都内一円そしてそれ以外へと広げていった。

「ずっと恵比寿にこだわって、恵比寿の街を変えてやろうとの意気込みもありました。まだ都内にほとんどなかったスペインバルを恵比寿に出して以来、恵比寿にスペインバルばかりになった時期もありました。ミシュランガイドが発刊されて、ぜひ星を取りたいと考え、自分やピューターズの名前を隠して中国料理店『マサズキッチン』も出しました。目論見通りあっという間に星が取れたのですが、すぐにうちの系列だとバレてしまいました。

その前後で、恵比寿を飛び出し、都内や空港、地方への出店にも踏み切りました。やはり日本を盛り上げる、といいますか、しっかりと国内で展開していこうとの判断です」

松下社長の信頼関係の築き方

ピューターズ系列の店を数軒訪れてみると、各店各店で老若男女のスタッフが上手に有機的に組み合わさって過不足なく仕事をこなしていることが分かる。どの店も人手が足りないと感じさせる要素はなく、過分なほどの対応だ。飲食業界の人手不足は深刻だが、そこを乗り切る松下社長の手腕を訊いた。

「実は、本当にぼくは、具体的には何もしていないんです。もともと寿司の『松栄』があまりにも忙しく、バーを作ったのもそこに逃げたいという気持ちもありました。ただ、それが許されたのも、周りのメンバーがしっかりしてくれていたからに違いないんです。飲食業界での人手不足は深刻な問題で、うちも例外ではありません。でも、マネージャークラスの面々が、こつこつと面談しスタッフを育成してくれています。本当に、ぼくは何もすることがないんです。

幸か不幸か実家が寿司店だったせいで、オーナーになったのが早く、同じ年の鮨職人、ハワイ『すし匠』の中澤啓二や残念ながら亡くなってしまった『海味』長野充靖は修業途中で恵比寿の鮨店にいました。よく深夜に鮨談義をしましたね。ただ、ぼくだけがオーナーで感覚が少し違うというか彼らとの話題のずれもあったんです。今や中澤は先生と呼びたいぐらいの鮨の大家ですが、自分は彼らと違う人生を歩んでいる自信やプライドを持っています。すっかりちゃんとした会社になって、今でも分からないことだらけですけど、そんな自分の背中を見て、ついてきてくれてるのではないかと思います」

堅実な将来設計に向けて

松栄 恵比寿東口店

「ぼくは4年ほど前、脳梗塞を患い一時は言葉も発せられないぐらいの状態でした。そんなきっかけもあって、人生は堅実で着実でありたいと考えるようになりました。恵比寿の東口に新たに『松栄東口店』を出店したのも、本店の建物が老朽化していて、将来のことを考えての展開。渋谷にも『松栄』を出店します。常に、会社としてのピューターズを思うみんなに、恥ずかしくない立場でありたいです」

お人柄というのだろうか。この人にはついていきたい。そう強く思わせる魅力が松下義晴社長にはあった。しかも、ここまでの成功、業績を伸ばしながら、まったく偉ぶらない、意外なほどの人懐っこさも、代表としての会社の武器なのだろう。半分倉庫のようなダンボール箱が積み上げられたオフィスを辞する際、この飾らなさが、松下社長のそしてピューターズ成功の源泉なのだと悟った。

株式会社ピューターズ
【住所】東京都渋谷区恵比寿西1-10-8 SUGIYAMA BLD.4F
【URL】http://www.pewters.co.jp/corporate/

【プロフィール】
伊藤章良(食随筆家)
料理やレストランに関するエッセイ・レビューを、雑誌・新聞・ウェブ等に執筆。新規店・有名シェフの店ではなく継続をテーマにした著書『東京百年レストラン』はシリーズ三冊を発刊中。2015年から一年間BSフジ「ニッポン百年食堂」で全国の百年以上続く食堂を60軒レポート。

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